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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第6節:村の家々とその盛衰

忠兵衛の家庭

 家の興廃は経済外の理によることがある。生活を託するに足る耕作田畑が家の生活を維持する基盤であったことは論を俟たないが、その外にも家の盛衰にかかわる大きな力があった。子孫の繁栄である。忠兵衛の家は、その子孫に恵まれなかった家庭の一例である。

忠兵衛の家庭の家系図|スキャン画像
忠兵衛の家庭

 先ず元禄十五年(1702)、四十四才で男盛りにある忠兵衛の家庭は、福田村から迎えた女房ちよと、男子亀蔵、娘きい、ひさと五人の暮らしであった。妹のくには、高谷村の善兵衛のところへ縁付いていた。ここで気になることは、忠兵衛と女房との年令の差である。十二才のちがいは、順当でない印象を与える。然し世の中に例のないことではない。特に疑問はさしはさまないことにしても、男子亀蔵との関係を見ると、十七才の亀蔵は、忠兵衛二十八才、女房ちよ十六才の時の子供である。これはおかしい。十六才の子供は早すぎる。然しこれも異例のことではないので敢えて詮索はさけるとしても、次の宝永八年(1711)になると、再び大きな疑問につき当るのである。忠兵衝は寅の六月に死亡したとある。そして男子亀蔵が忠兵衛を名のって、父の跡をついた。この忠兵衛の女房が「きい」二十才とある。元禄十五年(1702)亀蔵には、きい(11)とひさ(7)と二人の妹がいた。女房「きい」は妹のきいと同名であり、年令は、元禄十五年から、九年たっているから、丁度二十才である。女房「きい」と妹のきいは同一人であろうか。あり得ないことである。然しここに一つの推理が成り立つ。女房「きい」の肩書きに、「母○子なり」とある。これは読みとれないが、○子を「つれ子」と読めば、こうなるだろう。元禄十五年(1702)の女房ちよは再婚であった。その時にきいをつれて忠兵衛に嫁した。きいは忠兵衛の娘であり、亀蔵の妹となったが血縁はない。その中忠兵衛は五十一才で早死した。亀蔵にあとを継がせて、家のかためをしなくてはならない。このような時に、ちよとは全く他人の嫁を娶るより、ちよの緑類から貰う方が、家庭円満のため上策である。そこで女房きい(20)が登場したということではないだろうか。ちよは再婚であると考えると、さきに、おかしいと思い乍らも世の中に全くない例ではない、として不問に付してきた忠兵衛と女房ちよとの年令の差も、ちよと亀蔵との年令の接近も、その理由が説明出来るのである。男子亀蔵と女子きいとの間が六年あいていることも、忠兵衛が暫く独身でいたためと解することが出来る。以上の推理は一応筋道が立っているようである。ところが五年後の正徳六年(1716)になると、又、困惑を感ずる記載が現われている。忠兵衛女房に名前がなく二十五才である筈の年令が二十二才であること、更にもう一つ妹きいが出現したことである。妹きいは二十五才の筈であるから、年令は略々一致している。元禄の女子きいが、正徳の妹きいと同一人であるとすれば従前の推理は成立しない。女房の年令が二十二才となっていることも、推理の邪魔をしている。「母○子なり」の解読が出来れば、これ等の矛盾を解決する有力な根拠となるが、今のところこれは不可能である。然し、私たちはここで以上の矛盾や疑問を解決することを目的とはしない。所期するところは、このような疑問や推理や、矛盾が出てくるような、家庭のあり方であったということである。順調に子孫兄弟の繁栄に恵まれなかった家庭であるということが解ればよいのである。尤も強いて辻妻を合せようとすれば、元禄の女子きいと同年輩の女の子が、女房ちよにあり、これをつれて来て、亀蔵にめ合わせたと考えればよいのである。名前や年令の不一致は、「宗門改帳」作成の時の錯乱であると考えればよい。
 十五年歴て享保十六年(1731)になった。忠兵衛の家庭は矢張り不遇であった。この夫婦にはいまだ子供に恵れなかった。妹二人はそれぞれ他へ縁付いた。弟七之助が平八郎となり三十才を迎え独身のまま、兄夫婦の耕作を手伝っている。また四年の歳月が流れた。五十才を超えた忠兵衛夫婦は、子供をあきらめて、弟平八郎に女房をとらせた。順養子として家をつがせたのであろう。その後この家はどのように変転したであろうか。記録を欠くので知ることが出来ない。とまれ一家の支えである主人や妻の一方が早死したり、あるべき筈の子供が生れなかったりしたために、心ならずも斜陽に立つ家庭がある。その不幸な例である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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