第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第6節:村の家々とその盛衰
与兵衛=与四兵衛の家庭
元禄十五年(1702)当主与兵衛(60)と妻くら(54)の間には武兵衛(37)由兵衛(28)とら之介(17)ざん(25)つま(22)の三男二女があった。
長男武兵衛は、与兵衛二十四才、妻十八才の時の子であるから、当時の結婚は一般に早かったと考えてよい。次男の由兵衛は後に組頭の役をつとめているから、この家も村内では中級以上の家産を持ち安定した農家であったと思われる。然しこの家風はただ堅実に家産を守って、百姓の勤めに精励するというだけでなく、立志伝的な、積極的な気風のあることが汲みとられる。先ず長男武兵衛は女房たまと共に江戸に出て、牛込の中山備前守の屋敷に奉公している。武兵衛夫婦の名はその後の「宗門改帳」には現われないので、その生涯を知ることに出来ないが、長男の身であり乍ら、その家督をすて、又幼い娘のよし(4)を祖父母の手に託して、夫婦共に出府し武家奉公に入るということは、並々の百姓では思い及ばぬことである。青雲の志といったものが感じられる。これは武兵衛個人の発想ではなく、前にいったようにこの家の家風であったようである。三男のとら之介は十七才で、すでに糀町の鳥屋伝左街門の店につとめている。とら之介は後に名を改めて、次郎八、ついで次郎兵衛と名のり、生涯江戸で暮らしたようである。鳥屋というのは家号であろう。その後の「宗門改帳」に、若干不連続の点もあるが、おそらくこの人は江戸で一家をたてて商売をはじめたものと思われる。次に長女ざん(25)が「田町○○物やに罷在候」とある。文字が乱れていて判読出来ない。江戸の商家に奉公に出たことは確実である。このように、家族の各々が広い世の中へ出て、その能力と希望に即してそれぞれの生活を築いていこうという積極的な生活態度が見られるが、その反面には又旧来の家を守って、農業に専念しようという堅実な処生哲学も堅持されていたようである。次男の由兵衛が、宝永八年(1711)には、奥田村から迎えた女房との間に一男一女をもうけている。正徳四年(1714)の「宗門改帳」には、名主太平、組頭由兵衛とあるから村役人として村内に重きをなしていたことが分る。この年に父与兵衛はすでに歿し、母が生存し、兄の娘よし(13)の世話をしている。末の妹は伊古村に縁付いているから、家族は大人三人、子供三人である。由兵衛の経営は大体この人数に匹敵したものらしい。由兵衛の長子は、はじめ弥左衛門(弥介?)次が虎之助、更に文六郎と、三回名前が変っている。改名が手軽に行なわれたということは、個人の名前というものが、村や社会の生活に余り深い関連をもっていなかったことを示している。家を単位として成立っている村の組織が、そしてその組織によって動いて行く村の生活が、個々の家の中に、影響を及ぼしていたのである。村全体の生活、活動の上からは、家の中の個々人の名前はさして重要ではなかったのである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
正徳六年(1716)には、母は六十八才となり姪のよしは小川村に縁付いて、働き手がへり、与四兵衛夫婦が中心で耕作が行なわれた。労働力の少い苦しい時期である。そして十五年たった。享保十六年には、母は歿し去ったが、男、女二人の子供が成人した。もう安心である。享保二十年にはその安定の姿が、ハッキリと維持されている。与四兵衛の家庭は、その家族が単なる百姓だけにその一生を埋めて終らず、各の志に従って、他の社会に発展し、しかも本家は堅実な農家として、順調な経営をつづけたという型で、特色のある家庭であると思われるのである。