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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第6節:村の家々とその盛衰

家の盛衰

 広野村島田氏領十六戸の百姓(一戸は絶家一戸分家)についてその経営規模を推定して見ると以上のようになる。上六、中六、下四という数字が出て来た。この三つの級の田畑がそれぞれどの位であったかということは、検地帳や、名寄帳がないので明らかには出来ない。唯、他村の例によれば、越畑では元禄十一年(1698)検地の時、五兵衛三一五畝、平兵二四〇畝という記録があるが、これは例外的で他は大きい方でも二町以下である。杉山村では天明三年(1783)の記録で、一町歩以上が十一戸あるが、内二町七畝が一軒だけで、他は一町台である。広野の場合も、上級二町前後、中級は幅が広く、下位は二反歩位まであり、下級には一反歩に足りないものもあったと思われる。島田氏は広野村で高一〇九石領している。「宗門改帳」によれば、広野本村の外勝田二戸、川島の五戸がこの島田氏に属しているから、戸数は二十一となる。一戸平均石高は五・二石である。石盛田畑平均「一〇」として、平均五反二畝ということになる。それで上の部は大体、二町歩程度までと考えることが適当であろうと思う。
 さて私たちは、広野村から四つの代表的な家を選び出して、その家運の変転推移を考察した。この仕事の間に、家運の盛衰は、必ずしも、家産の多少、つまり田畑の多寡、耕作の大小のみによらないことを知った。そして家運の盛衰は、家族の繁栄に原因するふしが多いという示唆(しさ)を得た。よって他の十二戸の家を経営規模に従って三つのクラスに分けてその家の移り変りを見た。そして貧困と不幸は、常に表裏しているので、これを二つに分けることは容易でないが、然し不可能ではない。人の力によって、つまりここでは家族の繁栄を意味するが、これによって貧困と不幸を真二つにたち切ることが出来る。貧困は必ずしも不幸の原因ではない。不幸のもとは、家族の不調によることが多いということが分った。
 上級富裕の家が、よい子孫、後継者を得ないため、忽ち凋落(ちょうらく)の一途を辿るのもその証拠であるということを知った次第である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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