第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第5節:入会山
入会山と村の性格
村の持っている土地といえば、旧菅谷村には将軍沢南鶴に二町七反、仲の町に三町五反の村有林があった。昭和二十五年と昭和二十九年に菅谷中学新築の時、その立木の松を売却して建築費の一部にあてた。薪下草落葉等の採取を大蔵と将軍沢にまかせ、新植の小松の育成管理を依頼して両字とその契約を結んだ。村有林の立木は村で処分し、村の公共事業にあてたのであって直接村民の利用に供せらるべき性格のものではなかった。ボヤや下草落葉は、契約によって、大蔵、将軍沢区民の利用が許されたのである。野ばなしに誰でも入ってとってよいというものではなかった。この村有地と江戸時代の村持ちの山林、村の百姓が誰でも利用収益することが出来たという入会関係の村持ちの土地とは、その性格が大分ちがっているようである。この点はどうなっているのか。
再び学者の説明を聞こう。これは入会地に対する法学上の分析である。「村の住民は単にその村の住民であるという身分を取得することによって、当然に入会地に対する使用収益の権能を取得し、その他に何の取得名儀を必要としなかった。入会地が村に所属している限り、入会地は分割されずに止まり、入会地が分割されない限り、入会地は村の住民全体に所属し、村の住民全体は入会地に対して権利を有したのである。」
この入会地に対する村民全体の権利がいわゆる入会権であるといい、
「徳川時代に於ける村の本質が、その村民の人格と不即不離の関係に立ち、村民と分離独立しない村民全体であった以上、いいかえれば村の人格がローマ法的な擬制(ぎせい)的法人として、個人人格に還元されない限り、村の入会地は村民全体の総有地であり、村民は全体として入会地に対し団体的所有権をもっていたといわなければならない」
といって、村は村民全体の総合体であったから入会地は村民全体の総有地であるとし、然しこの入会地に対する村民全体の所有権の行使については
「村は団体として総体権をもち、この村の総体権によって村は団体として組織的活動を営んでいた。入会地が村民の全体に帰属した点では、今日の共有と何ら、異るところがないが、入会地に対する所有権の行使について、村民の総合体である村が団体として総体権をもち、これをもって村民の入会地に対する個別的利用権を統制した。この点で共有関係とはちがっている。そこに又入会権の特質が存在しているのである。即ち入会地に対する住民の個別的利用権の上に村の総体権が干渉したことによって入会権は私有権化しなかった。又村が入会地に対して総体権を行使することによって村民の平等、全体の幸福、村の平和が保たれ、村は団体として自治的機能を発揮したのである。村は村民の権利の平等全体の幸福のために、入会地の利用に関し種々の規則を設け、その機関を通じてこれを執行したのである。村民は入会地利用の時期方法割合等総て入会地に関する事件は、村の意志機関である「寄合」で之をきめた。入会地の分割譲渡質入のような処分はすべて村民全体の同意によって行なわれた。各々の村民には入会地の分割請求権がなかった。即ち村は団体として入会地に対する管理の機能をもっていた。この村の管理処分の権能が村の総体権であった。村民は村の住民であるという身分の取得によって当然入会地に対する利用権を獲得した。そして村民は村の規則に違反しない限り、自由に入会地を使用し収益することが出来た。入会地に対する村民の使用収益の権能は、直接入会地に対する所有権の一部であり、所有権に含まれている権能の一部であった」
といって、入会地に対する村の権能と村民の権利の内容と両者の関係を明らかにしている。更にこの両者の関係は相待的組織的な結合であったとして
「以上のように入会地に対する権利を行使するという関係で、村は住民の全体として管理処分の権能をもち、村民は住民として使用収益の権能をもっていた。この村の総体権と村民の個別権は他人行儀的に対立していないで、お互に制約し補充し組織的に結合して、完全な団体的所有権を作りあげた。これが入会権として現出したのである。入会地は全体の目的と個人の目的との双方に役立ち、入会地の上には全体の利益と個人の利益が不可分的に結びついていた」
とのべている。そしてこのような関係が生じた原因は
「入会地に対する村の単一的総体権と、村民の複多的個別権とが組織的に結合したことは、全体の単一と部分の複数とが組織的に結合していた当時の村落の性質が入会権の行使の上に反映したものである。つまり村が村民全体として、村民と分離独立しない組織的結合を有したと同じように入会権の行使についても、村民全体の総体権と各村民の個別権とが組織的に結合していた」
といって、村の性質がその根底となっているといっている。
そこで更にこの村の性質についての説明をきけば次のとおりである。「江戸時代の村は、ローマ法の法人のようにその村民から離れて、その村民に対して、恰も第三者のように対立している擬制人ではない。それは村の住民によって支えられ、村住民と分離独立しないつまり住民の人格と村の人格とが不即不離の関係にある村民全体の総合体であった」
という。そこでもう一度ローマ法の法人による単独所有や共有関係と対比して入会権の内容を解明すれば
「村の入会地は個人所有に還元された法人の単独所有ではなく、村民全体の総有地であった。村は入会地に対して管理処分の権能をもっていたが、土地を所有する能力はなかった。入会地は村の単独所有に属し、村民がこれを利用する権利は、他人の物に対する物権であるという関係ではなかった。村の住民であるという身分の得喪によってこの利用権の得喪が生滅した。利用権は村の住民たる身分を前提としたのである。そしてこの身分関係の外に入会地に対して独立の持分権はなかった。又、村民は、入会地を使用収益する権能はもったが管理処分は出来なかった。これはローマ法の共有のように完全な所有権の分数的な一部分ではなかったことを示している。入会地の分割請永権はなかったのである。ローマ法の共有権とは符合しないのである。このように入会権はローマ法の法人の所有でもなく、又各村民の共有でもなく、両者の結合でもなかった。個人の所有か、法人の所有か、多数人の共有かであるという以外に村という特殊の人的結合が、所有権の行使の上に強く反映したものであった。これはゲルマン法の総有権と同じように、わが国古来の慣習によって成立した権利であり、わが国村落の団体的性質と結合したものである。」
といっているのである。
地方自治法に「地方公共団体は法人とする」とある。法人とは、自然人ではなく、法律の上で、権利義務の主体であるという資格を与えられたものである。これは明治二十一年(1888)に発布された市町村制の第二条で、町村は法律上一個人ト均ク権利ヲ有シ義務ヲ負担シ凡町村公共ノ事務ハ官ノ監督ヲ受ケテ自ラ之ヲ処理スルモノトス
と定められたことに基くのである。この法律によって、旧来の村々は分合されて一つの新しい村となり、その村に個人の人格と同一の、法律上の人格を与え、村は個人とひとしく、権利義務の主体となったのである。旧菅谷村七郷村がこれである。新しい村の人格は法律が与えた抽象的な人格であり、しかも個人人格に還元されたものであった。だから村は、村民とは分離し独立したものであり、村の人格と村民の人格とは何の関係もないし、村はその成員に対して第三者のように対立したのである。そこで村の財産は、村そのものの財産で、村民全体の共同財産ではなかった。これが現在の村の性格であり、将軍沢の山林はこの村の所有に属していたのである。それで村は個人が自分の山の木を伐って家の建築にあてるのと同じ意味で村有林の松の木を売り、大蔵、将軍沢の字民は、他人の山を利用するのと同じ意味で、村との契約に基いて下草落葉を採取したのである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
これに対し江戸時代の村はその村民の人格と全然分離独立した抽象的な人格者ではなく、各村民によって組織され各村民の人格によって支持された村民全体の総合体であり、村の人格とその成員である住民の人格が不即不離の関係にあった総合人であったということになる。「村」「村役人及惣百姓」「百姓総体」であった。ここに今の村有林と昔の村持の山との性格の相違がある。次に入会地の管理や利用の状態を本村の事例に基いて、検討してみよう。