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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第5節:入会山

大ヶ谷原・高城原

 鎌形村の大ヶ谷原や高城ノ原は、原野が不分割のまま村民の利用に供せられていたことを示す顕著な事例である。これは元文五年の検地帳に「玉川郷鎌形村入会秣場」と書いてあるのでよく分る。玉川郷の村民と鎌形村の村民が入り合って共同で薪芝草等を採取した場所であって、玉川郷の何某、鎌形村の誰某という風には分割所属されていなかった。二十数町の土地がすべて共通に玉川郷と鎌形村とのものであった。いはば村の土地であったのである。このように二ヶ村以上の村で共同に使う土地を村々入会、一ヶ村だけで使う土地を村中入会といった。前にも触れたように分割区分されない土地は、百姓の一人々々に私有されていない土地という意味であるから、誰の土地かといえば村のものということ以外にはならないわけである。反別もなく持主が定かでないといっても、全然自由にこの土地が開放された状態にあったのではない。どこの村からでも自由に入り込んで薪をとってもよいというのではなかった。村々入会は、二ヶ村以上の限られた村であり、村中入会はその村だけの村民に限られたのである。山林原野等入会利用の土地は、村のものだったのである。ただこの場合、その地盤を村がもっているという意味に限定されない。その山林原野を使用収益する場合の管理権を村が持っているということが村持という言葉の内容であったのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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