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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第5節:入会山

杉山村の山年貢

 元文五年(1740)「申年田畑御勘定帳山御年貢共 杉山村」(初雁喜一氏蔵)は、百姓個人別に田、畑、山の年貢を割当てたものである。この記載によると「畑方」の部に

高五百八拾五文    勘多郎
  五拾八文   新畑
 〆 六百四拾八文
    五百六文
 高 百廿文  山  同人
    九拾四文

というように、山の永高と、納付銭高が書いてある。全員について「山銭」の割当がある。これは個々に山を分割して持っていたからではないか。更に又、年度は不明であるが、杉山村「山反別改帳」というのがあり、百姓六十一人について、夫々所有反別と思われる面積を個々に掲げてある。その総計は「拾町六反六畝拾六歩 永壱貫三拾壱文弐分五リン但し口永共ニ」とある。個人持の山があった証拠ではないか。
 これは例外といえばそれまでであるが、余りハッキリ原則に反しているので、何かわけがありそうに考えられる。第一に気のつくことは、総計一〇町六反六畝を六一人の百姓に分割すると平均一反七畝余りである。小規模である。事実、九反九畝四歩 忠次郎、六反 小右衛門が例外で他に四反以上が三人、三反以上が三人、二反以上が七人で、一反以下が大部分である。然し四畝以下はない。山にしてはいかにも面積が小さい。これは何か基準があって、山の反別を指定したものではないだろうかと思われる。四畝以下の持主がないことも、作為的な分配であることを匂わせる。ところで一方こころみに元文八年の帳簿を見ると、はじめからの三人は

勘太郎  米  一石〇六七六  山永一二〇文
喜八郎  〃  一石〇四二〇  〃 一〇〇文
新 八  〃  〇石五八四二  〃  五〇文

とあり、途中では

小右衛門 〃  二石六二八四  〃 二三四文

となっている。
 右は無作為にひろい出して見たのであるが、大体山永は年貢米高に比例していることが分る。そこで前に想像した何かの基準というのは、年貢米高ではないだろうかということになる。年貢米高は田の反別に従うと考えてよいから、年貢の米高そのものでなく、田の反別に従って、山が割当てられたと考えてもいいだろう。山は農業経営に必要な芝草や落葉の供給源であるから、右【上】の考え方は無理ではないし、又、田の地先木蔭の部分を田に付属せしめて利用させたと考えても順当であろう。こうなると杉山村の「山反別改帳」などの記載も、その本質に於ては山林は反別もなく持主も定まらず、総村持の土地であったという原則と変らないことになる。村内の山全体についてではなく、ごく一部の山を、百姓経営に必要な資材の供給地として、個人に割当てた。それは各自の田畑屋敷の周辺の山だけで、奥山までは至らなかったにちがい。大部分の山は村民全体の利用にまかせられたと考えていいだろう。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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