第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第5節:入会山
入会山の由来と役割
以上のように各村共、共有の入会地をもっていたことがわかるのである。さてこの入会地というのはどうして生れどのような役割をしていたのだろうか。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
「わが国では上古から山林や原野は分割されずにあって、その付近に住む村民の共同収益にまかせられていた。不分割の山林原野は、誰の私有ともならず、その地元の住民が自由に利用して来た。徳川時代になっても、山林や原野は原則として反別もなく、持主もきまらず、総村持の土地であった。当時の農民は村の入会地である山林原野にいって農業経営に必要な秣草肥草を刈りとり、農民生活に必要な薪炭や、道路橋梁井堰等の用材を伐採し、萱葭(かやよし)をとって屋根を葺き、竹木を伐って家財道具を作ったりなどした。だから入会地は農耕上欠くべからざる補充財であったし、又、当時の農民生活上なくてはならない補足財であった」これは入会地の起源と、それが果した役割についてのべた学者の説明である。この説明に従って本町の場合を考えていこう。
上古から山林や原野が不分割のまま、何人の私有ということにもならず地元の住民が自由に利用したという点は、本町でも同じであったと思う。徳川時代にも、原則として山林原野は反別もなく、持主も定らなかったと考えてよいだろう。唯一つ本町にはこの原則に反した例がある。例外とでもいったらよいのであろうか。これを検討してみよう。