第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第5節:入会山
村々の入会山
江戸時代には、村持の山林原野を一般に「村山(林)」「村受山」「百姓林」「村持の原野秣場」などといった。村持であるから、村の住民が共同でこれを使用収益した。この村民が共同で使用収益する場所を、入会地、入会山などといったのである。遠山村の村林はこの入会山に相当するものであったと思われる。
江戸時代の村は必ずこの入会地を持っていたようである。「沿革」にはこのことが明らかに記載されている。例えば千手堂村の項に山岳雷電山を説明して、
「本村字上ノ山ニ連互シ 東林下ニ民家アリ…… 又岳ヨリ三分シ 西ハ遠山村ニ境シ、西ハ鎌形村入会秣場ニ属シ 北ハ山脈平沢村ニ接ス」
とある。雷電山の三分の一、西方が鎌形村との入会株場になっていたのである。又、同村原野の項に「小千代ノ原」をあげ
「中央ニ耕作道アリ、該道ヨリ南ハ平坦ナリ北ハ西北ニ傾斜シ二条ノ小谷アリ民有ノ小田アリ、柴草生ズ 村民ノ秣野トス」と書いてある。これは官地に属し、面積は四町二畝八歩であった。
鎌形村では元文五年に秣場の検地が行なわれた。検地帳の表書が「沿革」にのこっている。(表書) 元文五年申十一月
武蔵国比企郡 玉川郷
鎌形村 入会秣場検地帳
御代官 柴村藤右衛門
手代 八木仙右衛門
木村儀助
(合計)
秣場 弐拾弐町壱反壱畝拾弐歩「沿革」には原野としてある。これは江戸時代からの入会地であったのである。この秣場は「大ヶ谷原」のことである。「沿革」で大ヶ谷原は鎌形村と玉川郷との入会で民有に属し、反別は二二町六一畝二一歩、村民の秣場であるといっているのがこれに当っている。その他鎌形には同じく玉川との入会地高城の原、五町六反五畝一四歩もあった。これも「沿革」に「生産 萱草生茂村民ノ秣場ナリ」と説明している。
以上二ヶ村の例から各村共に相当広大な入会地をもっていたことを想像することが出来る。それをもう少し調査してみよう。そのために千手堂村と鎌形村の秣場で次のことに注意しなければならない。即ち「小百代ノ原」は村民の秣場だと書いてあるがその地盤は官地である。鎌形村の「大ヶ谷原」と「高城ノ原」は「民有ニ属ス」と明記してある。この相違が一つと、鎌形村の場合は、玉川郷と二ヶ村の入会であると書いてある。この二つのことである。今必要なのは最初の問題だけである。第二のことは後にゆずる。
村民の秣場であり乍らどうして地盤は官有地であるのか。いや官有地を何故村民の使用収益にまかせてあるのか。これが一つの問題である。その解決は鎌形村の検地帳が物語っている。検地はその土地を年貢賦課の対象とするためである。そして年貢高を定めるために行なうのである。元文の検地によって鎌形村ではこの地から年貢を上納するようになった。「沿革」の旧雑税の項に
「野手米 壱石壱斗六合
柴草冥加 永弐百五拾文」
とあるのがこれである。ところが明治初年地租改正のため、土地の官民有区分が行なわれた時、旧幕時代に納税等をなし、私有の証拠の明らかなものは私有地とし、そうでないものは官有地に編入した。この時、村有山林原野の多くは官有地と定められたのである。鎌形の秣場は検地をうけ、年貢を納めていたので、民有となったのである。「小千代ノ原」はこれがなかったので官地となったわけである。然しこの地は幕府時代から長い間、柴、草等の給供地として、村民の生活に密着していた。それで官地だからといって、今すぐこれを禁止してしまえば、百姓の生活を破壊することとなる。そこで旧来の慣行通り、ここが村民の秣野としてその使用収益に委せられたのである。これが「小千代ノ原」が、官有で村民の秣場となっている理由である。こうなると、菅谷村をはじめ、官有地の原野が沢山ある。これはこと改めて秣場とか入会地とかいう説明はないが、いずれも旧幕時代は村の入会地であったと見てよいようである。「沿革」により菅谷地区からその面積を調査してみよう。▽菅谷村
用材林 三六畝一六歩
芝地 五三畝一六歩
草生地 三六一畝二一歩
原野(境原) 三三畝二九歩
▽志賀村
秣場(民) 四四三畝二〇歩
原野(金平ノ原) (民) 三六三畝二三歩
(我田分野) (村持) 三六畝一三歩
(註)この村でも、柴草冥加永一二〇文を納めている。
▽平沢村
秣場 五三八畝一三歩
芝地 一四一畝 九歩
原野(遠道原) 一二五畝〇〇歩
(丸山原) 八〇畝二五歩
▽遠山村
原野 六七七畝二三歩
▽千手堂村
秣場 三九九畝〇八歩
芝地 六六畝〇〇歩
原野(小千代ノ原) 四〇二畝〇八歩
▽鎌形村
用材林 一一六畝二六歩
薪炭材 一四畝一七歩
芝地 一一〇五畝二五歩
秣場 二八六八畝〇四歩
秣場(民) 二八二七畝〇五歩
萱生地(民) 七三畝一〇歩
芝生地 七九畝〇三歩
原野(大ヶ谷原)(民) 二二六一畝二一歩
(高城ノ原)(民) 五六五畝一四歩
▽大蔵村
林 三五畝一二歩
原野 二七畝〇四歩
〃 (不逢ヶ原)(民) 八一二畝〇〇歩
(註)野手米八斗、柴草冥加二五二文二を納めていた。
▽根岸村
林 一畝二六歩
芝地 四九畝〇九歩
(民) 一六六畝〇五歩
▽将軍沢村
用材林 一二六畝一八歩
芝地 一四八四畝一五歩
秣場(仕止ヶ原) 三二二五畝一七歩
(註)各村とも原野何々原の面積は他の面積と重複しているものがある。又官民有の区別の明らかでないところもある。七郷地区の村々については、まだ史料を見ることが出来ないので、菅谷地区のように計数的に上げることは出来ないが、同じように入会地をもっていたことは間違いない。編纂委員は次のように語っている。
▽小林文吉氏
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
吉田越畑には原山という大きな原野があって、草刈に行き、冬にはつつじの根を掘って薪木にする人もあった。小川県道の両側にあり、国有林となっていた。日清戦争後払下げをうけ、吉田では分筆して八畝宛、三十数名で分けた。御林山というのもあり、これも払下げた。堂山(杭木山)という共同山があった。田の木蔭にならないよう伐採して杭木にした。今は田の地先関係で持っている。
▽荻山忠治氏
古里では共有の原野があったが、村社合併の経費に充てるため分割して田の地先に売却した。官有地の木はとるわけにいかぬが、枯れっこや下草を採取した。
▽馬場覚嗣氏
越畑には十三間原という共有地があり、明治四十年頃十四町余の面積で、誰がいってもよい草刈場であった。後に五軒組合へ分割し、今は立派な山林になっている。
▽田中勝三氏
勝田には明治九年(1876)の調査で官有地四町四畝と、八畝十一歩がある。草刈場であった。