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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第5節:入会山

入会山の管理

 遠山村の村林に戻ってみる。この村林は百姓平兵衛の地続きになっていた。村林は横吹きの郷境とあるから、鎌形村との境であり、その北に平兵衛の畑があったと想像される。それで何故平兵衛がこの村林の木を伐ったのかと考えると、これは畑の木蔭になっていたためではないかと思われる。はじめ村役人から注意したのにこれを聞き入れないということは、平兵衛側にも何かしかるべき主張があったのだと思う。「村持の地所を押領可致心底……」とあるところを見ると、材木が目的ではなく、土地を広くすることに目当てがあったものと思われる。つまり境木を切って木蔭を除き畑の生産をあげようというのが平兵衛のねらいであり、村林を侵かしたのではない、邪魔を排除したにすぎぬ。というのが彼の主張のように思われる。これが村役人の注意を無視した理由であろう。それにしても、再び文書の警告をうけてから急に平兵衛の態度が変化し、平身低頭専ら低姿勢に構えたのは何故だろう。それは平兵衛の行為が村の問題となったからである。平兵衛の利益と村の利害が対立するにいたったからである。これは始めから分らないわけではなかった。然し平兵衛は考えた。村の林は村民の林であり、平兵衛も村民であるからその村林を利用する権利はもっている。その村林の木が畑の邪魔をする。だからその村林の木を木蔭伐 (こさぎりし)てもよいではないかという議論である。だから村役人の注意をうけ入れなかった。だがこれは通用しないのである。村役人はこれを表汰沙にし、村全般の問題とした。

「我意を以て村林を勝手に伐取ってもよい理由があるなら遂一(ちくいち)申立てろ」と開き直ったのである。江戸時代の「村」は「村役人及惣百姓」「百姓総体」と同じ意味であって、村民全体の総合体であったから、平兵衛が村と対立抗争するという事態がすでに論理的にも不可能であったし、現実には存在し得なかった。村と対立するものは村以外のものでなければならない。それは村民としての資格を喪失することを意味する。平兵衛は村民平兵衛であって、村民とかかわりない人間平兵衛というものは存在しないのである。村と対立することは自己否定である。平兵衛の負けははじめから分っていたのである。この段階になると平兵衛も、「一言の申訳無御座候」ということになるのである。そして賠償(ばいしょう)として、金壱両を差出し、村役人を通じて「村方一統」へ詑を入れたわけである。

 右は一片の古証文にすぎないが、その中にも村林をめぐる村と村民の関係を読みとることが出来て興味が深い。村林の利用について各村民は自分達の寄合いできめた「村極(むらぎめ)」に従わなければならなかった。個々に権利があるといっても、それは我儘勝手に行使出来るものではなく、村のおきてに従わなければならなかった。村民は住民として村林の使用収益の権利をもっていたが、村は住民の全体として管理処分の権能をもっていたのである。遠山村の村林にも、成文、不文に拘らず何か規約があったものと思うが、その資料はまだ見出せない。

 勝田の田中勝三氏の話によると「勝田には長沼の東に草刈場があった。ある一人の百姓が朝早くから馬で草刈りに出かけ、大入道が出たとか、天狗が現われたとかいって、他の百姓の草刈りを牽制(けんせい)し、草を独占しようとした。…そのため後になってこの草刈場は高い値段でこの百姓に押しつけて買いとらせた」という伝えがある。このような話が伝るのは、矢張り草刈場が(入会地)総村持ちがあって、個人の無制限の利用を許さなかったことを物語っている。村民は自分達のきめた規則に反しない限り、自由に入会地を利用することが出来た。村民という身分があれば誰でもこの権利をもっていた。今の共同山は村の性格が変ったので、昔の入会地とは大分ちがったところが多いがそれでも今、村の入会地であったと思われるものにはその当時の片鱗が残っている。

 奥平武治氏によると、平沢には丸山という九反程の共有地がある。共有のいわれは不明だという。多分村山の変形であろう。この所有者ははじめ四十九名旧来の村民だけであった。道路普請の杭をとったり、又三十年樹令の松を売って共有者で分けたりした。公会堂の修理など字の事業にこの山からの収入をあてた場合、権利のないものは金で負担した。近頃分家や外来のものが加入して権利者がふえた。この人達は、立木や土地の時価を計算し、これを旧来の権利者数で、割って出た金額を納めるのである。かといって他の地区に出ていってもその権利を持って行くことは出来ない。放棄するのである。用益の方法は総会を開いて一年毎にきめたというのである。昔の入会地の慣行が大分残っているではないか。その中新加入の場合に、旧来の持人一人分の山の評価額の金を出すということは、旧来の人たちが、村民たる資格に於て、この共同山の権利者であったことを裏書きするものであり、転出者がその権利を放棄することは、村民たる身分の得喪が、山に対する権利の得喪に連っている証拠である。今の字は昔の村の後身であり、今の共有地は昔の入会地の変身である。似ているのが当然である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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