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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第4節:部屋の呼び方と使い方

でい

 出居は普通、四間住宅なら、表側の方の土間に近い間をいう。京都上流の家にも用いられた語で客を応対するために出て居る間という意味であった。それが農村には今も広く保存されている。東北でデコ、デェザというのは、常に使はぬ奥の一室に限られている。これに反して、もっと口もとの間だけを出居というところが多い。ここには多く神棚がある。デイの語を「本家」の意味に使う例があるのは、本家の他に出居を持つ家がなかったという重要な事実を暗示するかと思われる。
 以上は「民俗学辞典」の説明である。この説明とは若干相違して、この地方のでいは奥の一室である。東北デコ、デエザに共通するものである。客を応待するための場所であることには変りないが、ここで応待する客はただの客ではない。いはば貴賓であり、又、祭祀に関する客である。この部屋で行なわれる行事は祭祀である。でいは祭祀の間であり、礼の部屋である。でいには床の間があり、床の間には「天照皇大神宮」の掛軸をかけた家が多かった。神棚のある家もある。結婚式には床の間を背にして媒酌人や新郎新婦が座る。榛名講のお日待には、ここに榛名山の軸をかけて、神酒や神饌物を供える。葬儀にはここに祭壇を設ける。十三仏の軸をかけて七七日の供養を怠らない。でいは冠婚葬祭の式場である。勿論でいは普通の来客にも寄合にも使われる。寝室にも蚕室にも使われている。然し私たちは、一定の行事がその部屋をさしおいて他の部屋では絶対に行なわれないという事実を知れば、その部屋はその行事のために準備されたものであると判断してよいわけである。でいを差しおいてざしきやへやや茶の間で右にあげたような祭祀の礼は行なわれないのである。でいは祭祀の間と考えてよいだろう。尚、でいの庭先には築山がある。右住いの家なら大体南西の隅に築山が造られている。規模や趣向は様々であり、石や木や水の配置の妙をつくし、いわば庭園の部類に属するものもあるが、松の木二三本に草花数種という簡単なものもある。築山には木精、木こく、松、柏、きやらの五木が備なわらなければならない。(永島氏談)といわれた。このような場合の庭は客をもてなし、観賞するためという意味が強く出ているが、二、三箇の石と一本の松という庭の精神は自然の風致を愛する国民性のためというだけでは腑におちないものがある。田中氏、永島氏はこのことについて、築山は神の遊び場であり、又万一火災の場合家屋は焼失してもここは残る。即ち神の宿りがここに残るという考え方があったという。今の人達にはこの考え方は殆んど残っていないようであるが、私たちはこの考えを支持したい。とに角築山は今でも神聖な場所である。頑是ない子供と雖も築山を遊び場にすることはないし、これを汚すことは自ら慎しんでいる。又、それは親たちからきびしく禁止されることである。でいはこの築山と結びついて一層その性格を明確にし、祭祀の間であり礼の部屋となって村々の慣習に固定したのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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