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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第4節:部屋の呼び方と使い方

ざしき

 次にその使い方をみよう。先ずざしきである。ざしきは、外来者と応接する場所である。土間から直接、ざしきになる場合は、ここが「上りはな」である。「上りはな」には、普通火鉢などをおき、冬は手をあぶり、夏は喫煙の用具とする。来客はこの火鉢のそばに腰をかけ、家人と訪問の用件を語る。主人は火鉢をはさんで来客と対坐するか、土間に向って正座に坐ったりするかする。ここで茶菓の接待もする。来訪者が近隣の人達で用件も日常の些事(さじ)である場合はここで済ませる。来訪者の身分が高いとか、そうでなくても話の内容が重大であるとかいう場合は、腰かけでなく、ざしきに上る。個人のことなら冠婚葬祭に関すること、公のことなら村の建設事業とか紛争とか公職者の選出とかは重大な話にぞくするわけである。ざしきは応接の場所である。更にざしきは会合の場所である。現在どこの部落でも三月には、「大遊び」「男遊び」という「お日待」が催されている。昔からの風習である。作物の豊穣を祈る「榛名講」などが多い。
 「男遊び」に対して「女遊び」がある。子供達の「天神講」の集会もある。橋をかけ、道普請を行ない、堰を補強し、沼の修理をして、役員や当番をきめ、経費を清算し、慰労会を催すなど今でも私たちの周辺には沢山の会合がからみ合っている。旧幕時代には、村の自治や年貢の割付や領主からの命令伝達やら更に多くの寄合が行なわれた。今は各部落で公会堂を作り、或は出荷所や社務所や飼育所を使って大抵の会合はここで済ませるようになったが、昔はこのような施設がなかったので、一切の会合が個人の家で行なわれた。この会合の場所がざしきである。村政の執行機関である村役人の居宅が、村政の運営のために使われることは勿論であるが、個々の百姓達の家もそれぞれその属するグループの会合の宿として順番に会場に充てられた。私の好悪でこれをのがれることは出来なかった。グループのために家を開放しなければならなかった。そしてこの時に提供する部屋がざしきだったのである。しかもざしきに限られたのである。勿論人数の都合ででいも共に使われ、会場が茶の間まで拡張されることは間々あったが、根幹はぎしきである。ざしきを外して他を使うということはあり得ないのである。ざしきは公会場だったのである。個人の家の一部であるが、それは公会の席として村の人々の集合の場所として準備されたものであった。ざしきは公のためのものであるという観念が、昔の人達の間には支配的に存在したのであった。このことを物語る事実がある。筆者の祖父が村議をしていた時、菅谷、鎌形両小学校の合併問題が起って、鎌形地区には賛否両論があった。冬のある早朝、村の青年たちが、村議である祖父の意見を訊(ただ)すために十数名来訪した。青年達は「上りはな」に腰をかけたり土間に立ったりして、祖父と訪問の挨拶を始めようとした。「上りはな」とざしきの間は、障子四本で仕切ってある。早朝なので寝床はそのまま敷し放しであった。寝乱れたふとんの不始末を恥じて、母があわててこの障子を閉めた。すると祖父は声を荒げて、これを叱責し「しめてはいけない。あけておけ」と命令し、自らも立ってこの障子を押しあけた。少年であった筆者は、この祖父の言行がただ奇異に感じられただけで、その時その理由を解することが出来なかった。然し今にして思えば、これは前述のようなざしきは公のものであるという観念のあらわれであると分るのである。学校合併の問題について、村の青年の訪問をうけ、村議という公の立場で意見をのべる機会に際会したわけである。これはざしきに招じて、公明に堂々とその意見を開陳すべきである。然るにふだん寝室に使っている。ざしきはこの朝まだ公の席に供する状態にない。まことに不本意のことである。恥ずべきことである。名分が立たない。然るにそれを障子でたて切ってしまうことは、その上に尚、公のものを、「私」するそりしをまぬかれがたい。罪の倍加である。そこでよし、古く破れたせんべいぶとんの恥をさらすとも、公のものを私する卑劣のそりには及ばない。一切を開けひろげて、これを以って何等私心のないことを明らかにしようというのが祖父の意志であったと思うのである。ざしきは公の会合のために準備された部屋である。ざしきという言葉のおこりは、昔、板の間であった部屋に藁の円座を敷いて客を迎えたからだという。円座は今の座ぶとんにその風が残っているように一人一人の敷物である。でいとざしきの呼び方が逆になっている地方もあるが、いずれにしてもこの二室は客に関連のある部屋で、これに畳を敷きつめたのは近世のことである。ざしきはもと客を迎えるために、座を敷いた部屋である。この地方では応接や会合の場所をざしきと呼んだのはこのようないわれを含んでいるのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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