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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第4節:部屋の呼び方と使い方

共同体制内の住居

 さて家屋は家族の起居し生活する場所であって、一面的には極めて私的な性格の強い区画である。ブライバシーの拠りどころである。閉鎖的で従って又排他的な要素を、最も多くそなえた場所である。然しいかなる私生活も社会という現実の組織の中にいとなまれる以上完全の孤立は許されない。社会の枠から飛び出ることは自己否定を意味する。窓は必ずあけておかなければならない。江戸時代には、村という集団社会があって、その組織の中で、生産生活や社会生活が行なわれた。
 それで私生活の根拠地である家が、村という社会組織の中で、つまりその社会の一つの成員という性格におかれた場合、一体家は村に対してどのような働きをしたのであるか、家と村とはどんな関連にあったか、これを考えてみよう。
 現在の家とは大分異った特性をもっていたと想像されるからである。
 この手がかりとして、前にあげた各室々の呼び名を検討してみよう。前述のように四つの部屋はそれぞれ呼び名をもっている。ざしき、茶の間、でい、へやである。さじきは、おもてざしきともいう。茶の間は、かってともいう。でいは、おく、へやはなんどという場合もある。然し前の四つが最も広く行なわれている。この呼び名はいわば普通名詞である。一定の部屋を指示する名称ではない。けれどもこの地方ではこれがただ普通名詞ではなく、ざしきといい茶の間といえばそれぞれ一定の部屋を指し示すことになる。ざしきといえば、応接でも茶の間でもざしきである。リビングも、ダイニンクも部屋である。部屋の一種にすきないはずである。それにも拘らず、ざしきといえば、この部屋であると、村人は一致して考えているのである。茶の間というのは、四つの部屋のうちのどれであるか、ということが少しのためらいもなく、村人の頭にはハッキリしているのである。どうしてこうなったのであろうか。私たちはこれを村の共同体制から来たものと考える。最も私的性格の強い家が、村の共同体制の下に組みこまれると、私的の性格は背後に押しやられて公共的性格がその前面に出てくる。公共的性格とは開放的であるということである。つまりその家の各部分の呼称も、その部屋々々の使い方も自分だけの私称ではなく、誰にでもわかり、どこの家でも同様であるということである。村一般に共通のことがらであることを意味する。村一般共通とは村の慣習や風俗に従うということであり、村のおきてに束縛されることである。私の家であつても個人の咨意(しい)は著しく限定をうける。この意味で、家は村の公共的な施設の性格さえもつと考えられるのである。部屋の名称が各戸みな同じであることはここから出ていると考えられる。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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