第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第3節:家普請(三) 共同の祭典
上棟祝
家ぶしんの圧巻(あっかん)は何といっても上棟祝である。村人たちの共同の祭典という気分が一層濃厚である。上棟式には各職方、親戚、村人たちが集って、柱をたて梁(はり)や桁(けた)を組み、棟木(むなぎ)を上げて建前の仕事に協力する。夕刻になって上棟(じょうとう)が終ると、上棟の祝に移る。棟木に五本、七本と幣串(へいぐし)を飾り、神酒や神饌物を供えて、棟梁(とうりょう)が祝詞(のりと)を上げる。四方じめ、八方じめ等の儀式をやる。銭を投げたり、餅を投げたりして、近所の子供達をよろこばせる。直会(なおらい)は新築家屋の下でやるのが本式である。直会がすむと、棟梁送りをする。棟梁の家まで送るのが礼式であった。かいど別れといって、かいどのはずれまでで略すこともある。いずれも木やり音頭でにぎやかに送ることになっている。棟梁の許にはおさご半俵、立柱、水枕などの記念品を贈る。棟梁の家に行くとここで又酒食の接待をうけるのである。以上は小林文吉氏による上棟式の景況である。吉田村の名主伊兵衛の建築日記にもこの上棟式の様子をうかがわしめるところがある。文政三年の母屋の普請は三月十三日が上棟の日だったらしい。この日は手伝人が四十一人と書いてある。前日の十二日は二十一人であった。職人は七人出ているから、十三日には、普請の関係者が総出動したことが分る。そして十二日には酒を一分と六百六十文買っており、十四日には大工寅松に金一両を支払い、十□日に(多分十三日であろう)紙二百文、祝儀二貫百文の支出が記してある。文政三年頃の酒一升の値段は記録がないが、文化十一年の土蔵普請の記録中に、「百五十文 酒一升」と書いたところがある。今のように特、一、二、というように級別の価格が大体一定していたわけではないから、一升がいくらと定めるわけにはいかないが、大体百文から百五十文程度と考えてよいだろう。当時の一両は銭で六、六三六文となっているから、十二日の酒代、一分と六六〇文は二貫三一九文である。酒を一〇〇文とすれば二斗三升余り、一五〇文としても一斗五升の上である。上棟祝の関係者が五〇人とすればこの酒の量は一人当り四・六合から三合平均となる。豪華な宴会であったことが想像出来る。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)