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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第3節:家普請(三) 共同の祭典

お祭り意識の背景

 豪華な上棟式が展開され、家主だけの祝いでなく、村人全体の祭典らしい雰囲気の横溢 (おういつ)する背後には、村人からの資材の援助や、労力の提供があった。村人たちには家主個人の家をたてるというより、これは村の建物であり、公共の施設であるとという意識が強く働いていたようである。援助や協力はお互いのこととして、何の抵抗も感ぜず、至極当然のこととして自然にこのことが行なわれたのである。前に書いたように吉田村伊兵衛の家普請には延一三七人の手伝いがあった。実人員は五十六名その中他村よりの親戚知人と思われるものが十八名ばかり数えられるから村人の協力は三十数名である。この中には、繩だけ提供して手伝いには出ないものがあるが、大体一人が平均二日乃至三日位手伝いに出たことになる。繩は三ぼう五ぼうというのが多いが二〇、三〇、五〇などというのもある。総計で三八〇ぼうが記録に見えている。この繩と手伝い人夫は何をしたか、前にも書いたように、職人の手伝いや、普請場の整理、材料の運搬など、各種の雑役に当ったのである。中でその一番大きな仕事は、この繩の寄付に関連した屋根葺きであったようである。家の骨組になる柱や、桁や梁の切り刻みは大工の技術に頼らなければならないが、小屋組は梁を渡した上に丸太の合掌を組んでこれを梁ごとに立て、この合掌を母屋で連結するのであるから仕事は割合に簡単である。それでこの屋根葺きには沢山の人夫が手伝ったらしい。合掌を母屋でつないただけでは左右に倒れるので、これを両側から支えるように、隅や側からさらに丸太を掛け合わしてある。そのため屋根の形はいわゆる四注(寄棟)造りとなり、屋根は丈夫になるが、面積がひろくなるから、茅や繩などの材料が沢山必要であった。ことに繩は小屋組の丸太を連結したり、たるきの竹や棒に巻きつけたり、屋根の茅を固定させたり押えたりするために莫大の量を必要とした。今農家の屋根裏を見ると、屋根は丸太と竹と繩で出来ていることがよく観察出来る。繩はこのように重要な建築材料であった。この繩を三ぼう五ぼうと持ちよったのである。今のように繩ない機械があれば一玉(二五〜三〇ぼう)二時間たらずで忽ちない終るのであるが、手ないの時代では、一晩の夜なべ仕事に大体三ぼうだったという。とても個人の労働では間に合うものではない。それで三ぼう宛でも五ぼう宛でも三十人よれば百ぼうの繩が出来ることを知っていた。生活の知恵である。繩をなって手伝いに出て来た村人たちは、小屋組の作業を手伝った。前述のように合掌も母屋も垂木も繩でからげて組立てるのであるから、専門の技術を要しない。なれこで出来る仕事である。小屋組から屋根葺は小数の屋根屋の外は専ら村人の手で出来上ったのである。岐阜県だけではなく、私たちの村でもこのようなことが行なわれたと考えてよいだろう。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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