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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第1節:家普請(一) 建築費

百姓の生活と建築

 水田の生産量は、鎌形村や大蔵村の石盛りに従って、十三、十一、九をとれば反当平均は一石一〇〇である。この中年貢が半分として、五斗五〇〇の所得であり、一町歩の水田で五石五〇〇、文政三年(1820)一石当り〇・七七両、五石五〇〇では四両二三五、約四両と一分程度である。文政三年の建築費は一〇両二分二朱と十四貫六七四文、約一二両三分二朱になる。一町歩水田三年分の収入である。収入に対して大きな比重であった。事実、伊兵衛の耕作地は文化十年(1813)に次のようになっており、

上田  壱反四畝廿六歩  十三  一石九三七
中田  弐反六畝 壱歩  十一  二石八六〇
下田  四反  廿七分   九  三石六八〇
下々田   壱畝五歩    七  〇石〇八四
中畑    四畝廿五歩   八  〇石三八五
下畑    四畝廿八歩   六  〇石二九四
下々畑   七畝拾六歩   四  〇石二八〇
屋敷    壱畝廿歩   十一  〇石一七〇
外に開発山
      弐反五畝〇   二  〇石四四〇

これを、十三、十一、九、七、八、六、四、二、屋敷十一で計算すると、米にしてその生産高は合計一〇石一三〇となる。その半分は五石〇六五これを金にすれば約四両である。伊兵衛の建築費負担は大きかったといわなければならない。
 現在の金額になおして、安いという結果の出たのは、今経済の成長が著しく、国民の総所得が昭和四二年度は四一兆円全世界第三位という風にぐんと伸びているからである。村の経済が農業の低い生産性に依存していた時代ではこの建築費は決して生やさしいものではなかった。住宅の建築が今も昔も矢張り人生の一大事業であることには変りないようである。
 この大事をどうして果たし得たのであろうか。その建物に大小精粗(せいそ)様々の差別はあったが、とに角農民は一世帯、一戸を構えていた。その他に物置や、木小屋や二、三の附属建物を持ち、土蔵をもつ者も可成りあった。
 封建社会に於ける百姓の生活は甚だみじめなものであったと考えられている。作ったものはみんな年貢として取上げられるのが百姓の運命であった。大部分の米はとり上げられて、粟、稗、そば等の雑穀を食って命をつなぎ、しかも田畑の耕作に営々と励まなければならなかった。裸頭(らとう)蓬髪(ほうはつ)襤褸(らんる)、ふしくれ立った手足、曲った背中、かがんだ腰、百姓のイメージは甚だみじめである。
 このみじめな百姓が今の世にも尚困難といわれる住宅を、一体どのようにして作ったのか、どうして作ることが出来たのだろうか。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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