第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第2節:家普請(二) 村の協力
手伝いの人々
吉田村名主伊兵衛は、文化十一年(1814)から十二年にかけて、土蔵一棟を建築した。この時の「金出覚人足覚帳」をもう一度検討して見よう。前にも書いたようにこの建築に要した人員は、廷二九八人半となっており、この中職人関係が一七六人半で村人の手伝が一二二人である。当時は今のように作業が機械化されていないから一切が人手によって進められた。伐木製材から大工仕事、基礎工事、上棟、屋根、壁等、すべてに多くの人手を要したことは想像に難くない。そしてその人手の中技術的に止むを得ないものは、夫々その職人に頼んだが、その他の手伝ひ、雑役は全部村民たちの協力によったものである。この一二二人の数字がそれを示しているわけである。
文政三年(1806)伊兵衛母屋の建築の場合も同じである。手伝人は一三七人であった。仕事の内容は示してないが、手伝人の出動の状況を「家普請記」には次のように記録している。正月廿一日 七人 廿六日 き取 八人 廿七日 同 十六人 廿八日 三人
二月十七日 拾人 ?日 二人 廿七日 八人 廿八日 二人
三月八日 二人 十一日 二人 十二日 廿一人 十三日 四十一人き取りは、木材の伐採、運搬であらう。三月十三日は上棟だと思われる。とに角このようにして常時村民の協力が行なわれていたのである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
このことは前項でのべたように、百姓たちがどうしてそれぞれの住宅を建築することが出来たのかという理由を考える上に、見のがしてはならないことであると思う。