第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第1節:家普請(一) 建築費
金出覚人足覚帳
然し私たちは、この二十四万三千円を建築費の総額と見ているわけではない。というのは、この記録が極めて概略であって、この外の経費について記帳されていないところがあると考えられるからである。幸いに、この母屋より六年前に建築された土蔵の経費の記録がある。同じ伊兵衛の手になった「金出覚人足覚帳」である。これは文化十一年(1814)の七月から始り翌年の五月初旬に工事を終っている。記録は先ずこの期間の支払状況を月日順に記帳しその集計を掲げ、次に村人の協力を個人毎に繩と日数その他の物資で記してある。
経費の集計では〆 金七両弐朱ト外ニ金弐朱ト六百文
銭拾弐貫七拾九文とあり、この集計の内、職人手間と建材費として
金弐両弐分ト弐百文 九十人文蔵
金壱両弐朱ト四百廿四文 五十九人木引
金壱両ト八百文 木代(木伐りの意味か)
七百五十文 杉川(皮)代
金弐分弐朱 かや代
金弐分弐朱ト弐貫五十二文 かなもの代の説明があり、その次に食用米の量と思われるもので
九拾人 大工 五拾九人 木引
六人半 くろくわ 百廿弐人 村
七人 やねや
〆 弐百八拾四人半
壱人ニ壱日壱升づつ 七俵四升五合
外ニ拾四人 しやかんや 此米壱斗四升
合米七俵壱斗八升五合とある。
先ず前の例に従って総経費を今の金額になおしてみよう。文化十一年(1814)は米価が一石当り銀六八匁九と高い。銀、銭の相場は、一両に対して銀六一匁五七、銭五貫二八七文である。金一両で米は八斗九三である。
そこで計算は7両2朱+2朱=7.25両 8斗93×7.25=6石472 600文+12貫79文=12貫679文
12貫679文÷5貫286文×8斗93=2石143 6石472+2石143=8石615
15,000円×8.615=129,225円総計算約一三万円である。これも安い。然しその外に食用米がある。四斗入七俵一斗八五は、二石九八五である。
15,000円×2,985=44,775円
食用米を換算すると、四万四七七五円である。建築費にこれを合せれば一七万四七七五円となる。この土蔵は現在残っていない。大型の倉であったという伝えがある。三六の蔵とすれば一八坪、二階建で三二坪、坪二万としても、六四万円であるから、これも又安い建築費である。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)