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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第1節:家普請(一) 建築費

家普請記

 吉田村の名主伊兵衛方では、文化三年(1806)家屋の新築が行なわれた。これはその前々年文化元年(1804)に近火で類焼した母屋を再建したものである。工事は文化二年(1805)の十二月から始まり三年の四月に大体の工事を完了したようである。この建築の模様は伊兵衛の手によって記録され、「文政三辰年家普請記上吉田村小林氏」と標記された冊子となって残っている。これは主として大工、木引等職人の日日の就労数、手間や建築材、建築雑費等の支払の日記、村民や親戚知人などの協力状況などを記録したものであり、建築の工程や、基礎工事をはじめ、大工、屋根、左官、建具等の各工事についての区別は明瞭ではないが、とに角この記録に出ている範囲内で、この新築工事の概要を探ってみよう。
 先ず職人の就労は二年の十二月から三年の四月十日までで延二〇九人となっている。多い時は一日に七人が出ている。職種の区別がないので、大工が何人、左官が何人という風に区別して知ることは出来ない。おそらくこの二〇九人の中に各職種の職人が含まれているのだと思う。
 職人の名には、寅松、文蔵、友七、久太郎、□次郎、権太、勘□、一□、□□等九名の名が現われている。二月の初旬までは木引の仕事と平行して、殆んど連日寅松、文蔵、友七の名が出ているから、この三人は少くとも大工だろうという見当がつく。その他にも大工がいたかも知れない。誰が鳶で、誰が屋根屋で誰が左官かということは分らない。職人は寅松が全部統轄(とうかつ)していたらしい。これは職人手間が寅松宛に支出されていることから想像出来る。但し屋根屋だけには別に支払っている。大工仕事と共に木引の仕事が行なわれ、これが大体二人宛、二月廿日まで延三六人働いている。製材に当ったわけである。
 職人の出動状況は二月五日までが大体二人宛、六日から増加して四人以上六人までの日がつづき、三月五日から六人乃至七人となり、十三日まで続づいている。この頃上棟になったのであろう。
 さて工事費の支出を見ると、
職人関係では、計八両一分二朱と二貫二三二文 内訳は

大工  三両三分  と  一〇〇文
木伐  二両三分二朱と一貫三〇〇文
木引  一両一分  と  四六〇文
屋根屋   二分  と  三七二文

建築材料では、計二両と五貫六三二文 内訳は

かや  二両  一貫七八四文
竹       二貫一〇〇文
釘       一貫七四八文

工事雑費は、計一分と六貫八一〇文 内訳は

酒       一分と一貫三一〇文
あさ、紙その他      七〇〇文
祝  儀       四貫八〇〇文

となっている。総計で、一〇両二分二朱と一四貫六七四文である。
 尚この外に村民や親戚知人からの協力援助の状況が記してある。村民は繩と手間との協力である。これは

一、五ぼう  ○○○太右衛門
一、五ぼう   ○○新右衛門
一、        ○庄五郎
一、三ぼう      和兵衛
一、五ぼう   ○○○清太郎

というようにして、繩の数量と、出動の日数を○で示している。この人員は五十六名、内、村外と思われるものが十八名ある。そして延にして一三七名と数えられる。この集計と思われる数字が正月三四人、二月二〇人、三月が六六人となっている。一二〇人である。○の数とは一致せぬが大体この程度の協力があったのであろう。繩の数は、村内外含めて三八六ぼうになっている。一ぼうは二十尋、一尋は両手を左右に伸ばした長さである。村内は五ぼう程度が多く村外からのものは二〇、三〇、五〇というような大口のものが多い。その外竹などの提供も見えている。
 右【上】のようにして出来上ったのが現在小林利平氏の住む母屋である。今から一五〇年ばかり前のことである。そこでこの時の建築費を今の値段に換算したらどの位になるだろうか。米の値段を尺度にして計算してみよう。
 文政三年(1820)の米価は一石当り銀四八匁五分となっている。文政年間の金一両に対する銀と銭の相場は、銀が六三匁一二、銭が六貫六三六文である。従って一両当りの米の量は一石三〇〇強となるわけである。そこで前掲の工事費総額一〇両二分二朱を米にすれば約一四石となり、一四貫六七四文は二石二斗余りとなって合計一六石二〇〇である。現在の生産者米価を一五、〇〇〇円としよう。15,000円×16石2=243,000、二十四万三千円となる。何と安い建築費ではないか。今なら仮に最低坪三万と見ても、この家は五〇坪ある。一五〇万という数字が出るのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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