第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
二、村の生活(その一)
第5節:土地の移動
質入条件とその意味
私たちは、質入証文を検討している間に、質入条件として、五つのことに気がついた。この意味を考えてみよう。
第一の「質入の理由が年貢上納のためである」という点からはじめる。いづれの質地証文を見ても申し合わせたように年々の年貢上納に差支え、甚だ難渋(なんじゆう)しているので田地を質に置いて借金をするのだと書いてある。全く一律である。それでこれは一つの慣用文句で、事実の如何にかかわらず、このように書くことがその例になっているのだろうと考えた。これなら借金の名分が立って立派である。貧乏の原因はいろいろある。病弱、災害、怠惰、浪費等すべて生活苦に結びつく。然しこれをありていに書いて、その日の暮らしに困るから、借金したいというのでは、名分が立たぬ。その原因は背後に押しやって第一義の年貢上納を旗印にたてて、借金の名分をととのえたのであろうと考えた。然しそうではない。当時の村の性格をよくみると、これは単なる飾り文句ではないことがわかる。質入はレッテル通り年貢上納のためだったのである。これは先に見たとおり年貢皆済は単に個人の問題でなく、個人によって成立っている村の問題であったからである。個人の問題はそのまま直ちに村の問題であった。個人と村は別々の存在ではなかった。個人の年貢未進はそのまま村の年貢不納を意味するものであったからである。そこで第二の問題が起ってくる。質入には必ず証人、名主等がタッチしているということである。個人の年貢未進は村の年貢不納に結果するものであるから、上納の出来ない百姓が出た場合、村役人は村の問題としてこの解決策を計らなければならない。その打開策については、村役人や本人やその親戚縁類の間で様々の評議が行なわれた。そしてその最後の結論として、質入れの方針が打出され質入れの方法手段が計画されたのである。それ故質入れの措置については、本人は勿論証人、名主等連帯の責任となるのは当然である。それで質入には必ず証人か名主が登場するのである。このようにして借りた金であるから、その金が残らず本人の自由に費消出来るというものではなかった。先ず第一に年貢上納にあてられたことはいうまでもない。その余りがあれば、生活費や、再生産の経費にも充てられたであろうが、先取得権は年貢にあった。文化五年(1808)辰四月、鎌形(小峯)の百姓□□から殿ヶ谷戸の仁兵衛にあてた質地証文(一九七頁参照)にはこのことを「右之地所質地に相渡し書面之金子慥ニ請取御年貢上納申処実正也」と書いてある。第一の問題、年貢上納に差詰ったため田地を質に入れるのだという理由は、形式的のうたい文句ではなく、実態そのものであったことがわかるのである。
次に第三の年貢納入の責任は質取主に移ること。今なら土地の所有権はその事実を公簿に登記するこによって、第三者に対抗し、その権利が保障されるが、江戸時代にはこの制度は存在しなかった。それでは何を根拠としてその土地に対する権利の存否を認定したのかというと、その土地に課せられた年貢を誰が上納しているかということであったようである。年貢の負担者がその田畑の権利者である。権利者というのはその土地を使用収益すること。つまり耕作権と、この権利を又、他へ譲渡する権利をもつことである。それで質入証文には必ずこのことをのべて「然る上は貴殿方ニ而御年貢上納御勤御支配可ヒ成候」といっている。もともと太閤検地にはじまる江戸初期の検地では、農民のその時の耕作事実に基いて、これを検地帳に登録し、いわゆる高請百姓として、その土地に対する権利を保証し、同時に年貢の納入を義務づけた。だから土地に対する権利は、年貢負担と全く一体不離のものであって、権利を裏返せば義務が存し義務の遂行は権利の主張であった。その土地の年貢を納めている人が、その土地の権利者であったわけである。それで必ず質地証文には、質取主が年貢諸役をつとめるというとりきめがなされているのである。
そこで年貢を納めるためには、その土地からそれだけの収入を得なければならない。耕作しなければならないわけである。従って質取主が同一地域の者で、その土地を自作出来る場合は問題はない。年貢納入に必要な収入は自分の耕作によって生み出すことが出来るからである。そしてその土地は質取主の権利の下にあることが裏付けられるからである。ところが、遠山の例(45質地証文の書式)のように質取主が遠隔の太郎丸村である場合は、質取主の自作は不可能である。そこでこの質取主が実際にこの土地から年貢納入が出来るように、つまり年貢の費用を生み出すことが出来るように手配してやらなければならない。質入の証文をとっても、実際に年貢を納めなければ、その土地に対する権利は公認されないわけである。そしてその年貢を納めるためにはその土地から収入のあることが必須要件である。その土地から収入がないとすれば、そもそもこの質入契約は成立しないわけである。そこで質入主の方でこの要件を満たすために措置したのが直小作という方法である。質に入れ土地は質取主の権利に移ったが、その質取主に代って質入主が耕作するという方法である。質入主は耕作するだけで、年貢諸役は質取主が収めるのである。
この場合年貢諸役を質取主が勤めるといっても、実際は小作人の側でその作業一切をとり行うのであって、質取主は名儀だけ出しておき、その上に作徳米若干を受取るという仕組みになっていたのである。遠山磯右衛門の質入証文に添付した「小作証文」にこのことを述べて「御年貢諸役小作米之内ニ而御上納 請取書之義ハ貴殿名前ニ取置 作徳米年々金三分ト永廿九文八分ヅツ拾ヶ年之内別紙対談之通相済可申候」と契約している。この小作証文については前の質入証文と同様証人、名主等が連署して責任を分担している。くどいようであるが、質入やそれに附随しておこる小作の問題等、全く個人の問題ではなく公の問題であった。こと年貢に関する限りそれは村総体の問題であったのである。
最後に質入の期間を定め、その期限が来て本金を返済したら、その土地と証文を返却して貰いたいと念を押したとりきめは、これも質入証文の必須条件となっているが、これはどんな背景によったものであろうか。
田畑を売買することは、江戸時代の寛永二十年(1643)三月から明治五年(1872)二月まで禁止されていた。地方凡例録によれば、「田畠を永代に売渡しては、百姓家督に離れ有徳成百姓は次第に田地多くなり、小百姓は段々つぶれ、後は一村の田地、一両人にて所持いたし又は他村の百姓のものとなるにつき、大猷院様(徳川家光)御世寛永二十未年自今永年売買厳敷制禁被仰出……」
とあり、豪農の土地兼併(けんぺい)を防ごうとしたものである。寛永末年の全国的な饑饉(ききん)状態の下で、激増の傾向を現わして来た土地永代売の事実をおさえようという意図によったものだといわれている。幕府の農村政策は、太閤検地を出発点として、大小百姓の高請地を確定し、個々に年貢負担能力を有する本百姓を育成し、貧富の格差の余り甚しくない健全な村を維持経営させることにあった。百姓たちは、高請地を守り、精魂(せいこん)を傾けて耕作に励んだのであるが、当時の農業生産性はまだ極めて低かった。年々の蓄積を計る段階には至らなかった。それで一朝凶作に見舞われると忽ち生活に窮して、その土地を手離す以外に途がなかった。百姓たちは、なけなしの田畑を売り払って一時をしのいたのである。ところで農業の生産性がある程度高度になっていれば、売却した土地を小作し、年貢や小作料を納入しても、尚、小作人のとり分が残りこれによって生活を維持出来るわけであるが、当時の農業生産力はまだそこまでいっていないと見なければならない。従って売った土地を続けて耕作するとしても、それはいわゆる小作ではなく、買主の土地を耕作し、その代償として食わせて貰い、辛じて日々の生活を維持する程度のものとなる。これでは主人の屋敷内に起居して主人の土地を耕作する下人と、少しも変らぬことになる。身分まで、買主に従属することになるわけである。これは全く幕府の小農自主政策に逆行するものである。村は不健全な農村に転落することになる。これが永代売禁止令の出た理由であると思われる。
土地永代売買禁止令は発布されたが、時勢の変転は、この法令がそのまま忠実に守られることを許さなかった。前掲の地方凡例録には「田地は百姓永代の家督たりと雖、貧富常ならず、不得止事、質に入れ其用を足す……」とあるように、農民はやむを得ない金融の一手段として、売買という名目を避け、質地あるいは年季売りを行なったことが知られる。つまり質入という土地移動の形態が展開して来たのは、農村対策として、永代売買禁止の政策がとられことに対応するものであるし、農村の経済面から見れば、貨幣経済の波が次第に農村に押しよせて来て、年貢諸役が貨幣で代納されるようになり、米が商品化して、食う物から売るものという性格にかわり、これに伴ってその他にも換金作物が現われるという状勢に伴うものであったと思う。貨幣経済が百姓の生活にだんだん滲透して来たということが貧富常ならず止むを得ぬことになり、大切な土地を質に入れて金策をするということになったのである。尚もう少し突込んで考えると農村に貨幣経済がある程度滲透して、米の商品化が進んでくると、土地は一つの企業の基盤として、集積の対象になる。広い耕地をもつ程、多くの生産物の収得が約束され、それは直ちにより多くの貨幣の獲得につながるものとなる。一方にこのような土地集積に対する要求があり、他方には同じ経済状勢の作用で、どうしても土地を手離して貨幣を獲得しなければならない階層が発生し存在する。この二つの要求と必要が合致してここに田畑質入という型が決定的になったのである。然し質入をする農民の側にある小百姓にとっても、土地の生産物の収得をより大ならしめるという必要と要求は、質取主側の欲求と本質的の相違はないのである。彼等と雖もその経営を維持乃至拡大することが基本的な要求である。そこで一方では技術的に農業生産力の発展に精力を傾けることになるのであるが、もともと土地を手放してしまっては、その根本的基盤を喪失することになる。そこで、金融のため一時土地を手放すことがあっても、一定の年期を限って又これをとり戻し、もとのような農業経営に立戻る、これが百姓の基本的欲求に添う方向であったのである。こうして年限を定めた土地の移動が行なわれ、「年季明右之本金返済仕候ハバ地所証文共御返し可下候」という約定が質地証文に現れたのであると考えられる。
土地永代売買の禁止は自立本百姓を育成して健全な農村を維持発展させようという幕府の小農自立政策に出たものであるが、農民の側から見ても、永代売買により、特定農民にのみ土地の集積が発展し、村内に著しい貧富の差の生ずることは決して望ましいことではなかった。もともと村は、杉山村で見たように、はじめいくつかの同族団体がありこれが発展し、これが連けいし、交さくして出来上った共同体であるから、その共同生活の基盤には、いわば、相互扶助の精神が支配的に働いていた。幸福と繁栄は、矢張り全体的関連の上で考えられた。少数の繁栄と爾余(じよ)の甚しい窮乏は、正しく共同体の相互扶助精神を破るものであり、村民全体として極力排除すべき問題であった。(これは納税の面にも現われていた)このことは田畑質入についても全く同じである。質入は永代売買禁止の変型として現われた土地移動の型だからである。そこで村民達はこの質入に対してもお互に監視の目を光らした「村極」を作って質入を規制した例もある。例えば、「御年貢米に差詰り、田地等書入金銀借用、或は売買之節は、親兄弟親類等に相届け候而、相対を以借し取売買可致候若内証密々手形証文ニ而、売買仕候事 堅禁制也」
などと村の規約を定めた例もある。幕府側でもこの現実をよく把握して、寛文六年(1666)には、
「一、田畑永代ニ不可致売買、屋敷并田畑并質物等預申儀有之ハ、名主、五人組手形に加判仕、雙方より証文取かわし持可申候」
といって、質地は常に名主、組頭の承認を得ることが必要であると規定している。質地証文に必ず証人、名主等が加印しているということは、質取人に対する債権の確保を保証すると共に、他の面では、土地移動の野放しを防ぎ、又質入主の土地保有権を擁護(ようご)していこうということが主眼であったことも見逃してはならない。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)