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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第5節:土地の移動

「江入る」と「江引く」

 私たちに前に永代売りの禁止令やこれに対応してあらわれた土地の質入などについて、その政策的な背景や、経済状勢の変化などを一般的な社会経済史の面で眺めたが、これを事実上私たちの村にあてはめたらどうなっていたか、質入の問題を、現実にはどううけとめていたのだろうか。これを考えるのに「江入る」「江引く」「より入る」の問題がある。
 「元石帳」や「惣高帳」にあらわれた土地の移動についてみると、甲から乙に土地が移った場合、甲の部には該当の土地について「乙江入」という説明と、「乙江引」という説明と二通りの言い方をしている。これに対して受取った側についての説明はいずれの場合も「甲より入」として、「江入」「江引」に対応する区別はしていない。
 前掲の忠次郎の例にこれを求めれば14、15号、25号が「江引」の例で、14、15の二筆は「亥年喜四郎より入 文政二卯年同人江引」、25号は「文政二卯年長蔵分嘉兵衛より入、文政十三寅年又嘉兵衛江引」とあるのがこれであり、4号は「酉年忠右衛門江入」とある。これは「江入る」の例である。これに対して、喜四郎の部では「喜四郎分文政二卯年丈助より入」として受けており、武右衛門の部でも同様に「寅年山中分入 文政二卯年又丈助江引」といって「より入」で受け、「江引」で出している。入った場合はすべて「より入」である。そこで出る場合の「江引」「江入」の区別に問題がある。同じ出て行く土地に対してその言い方に別があるということは、出て行き方の性格に別があるからではないだろうか。そこで前掲の喜四郎、嘉兵衛のところを注意すると、これ等の土地はそれぞれ、喜四郎分、嘉兵衛分であったものが忠次郎からその本人の喜四郎、嘉兵衛に戻った場合に使われている。しかも又、忠右衛門に入れた山中分が、山中に戻った場合も「丈助江引」と書いてある。この例から見て「江引」という場合は、もとの持主に戻す場合のことであり、「江入」というのはそうでない場合の言い方であろうかという想像が起る。
 ところがここに別の実例がある。即ち前掲の小右衛門本高、前田壱反五分である。これは小右衛門から嘉兵衛、嘉兵衛から甚右衛門と移動し、再び甚右衛門から、嘉兵衛を経て小右衛門に戻ったものであるが、その註に朱書して、

「嘉兵衛に質地に売、又同人より甚右衛門に売置候ヲ天保八酉年 二月受出す」

とあるのに対して、嘉兵衛の項には、「寅年 又甚右衛門江引」とある。嘉兵衛が甚右衛門に売ったのであるが、これを「引」といっている。又、甚右衛門から小右衛門に戻ったことを、「江引」といはずに「江入」といっている。これでは、前述の、もとの所持者に戻った場合が「江引」のだという想像は成立しない。又、別の例で、天明三年の「惣高帳」の中「こめ」の部にこめ分の田畑の移動について文政十二年(1829)甚右衛門に対し、水田一筆が「江引」畑四筆が「江入」、儀兵衛に対して水田二筆畑二筆がすべて「江入」といっているが、文政十二年の「惣高帳」では、甚右衛門儀兵衛両者に対して同じ田畑について全部「江引」と書いてある。ここでは「江入」「江引」の区別はないもののようである。
 又同じ「惣高帳」兵吉の部に「天保九戌年 山中江入」と書いて、「入」の字を「引」の字に訂正したものがあり、市助の部には「天保十亥年六兵衛江入引」と二字書いたものもある。
 土地の移動について二通りの言い方があり、その使い方にも、何かの配意が用いられたと思われるふしもあるのでこれは一体どういういわれのものであるか。これが明らかになれば、移動のしかた、移動の原因などについてその差別を探ることが出来るのではないかと考えて、このことを現地の二三の古老に質したが、全く思い当る点がないという。「江入」は土地の移動「江引」はそれに伴う年貢高の移転を意味したものが未整理の状態で、混合して用いられたとも考えるが、これもきめてがない。「江入」の内容も判然としないものがある。
 前掲「元石帳」 小右衛門の項に

 前田 壱反五歩   弐斗五合壱勺
 小右衛門本高  天保八酉年入

の部に朱書して「嘉兵衛に質地に売又、同人より甚右衛門に売置候ヲ 天保八酉年二月受出ス」と説明があり、嘉兵衛の項には天保八酉年のことを、「又甚右衛門より天保八酉年小右衛門江入」といい、又朱書して「嘉兵衛より甚右衛門江入置候証文ヲ受出、又小右衛門より嘉兵衛方に入置候証文と取替ル」とあるから小右衛門→嘉兵衛→甚右衛門の移動は「質地ニ売」った関係である。その他の諸例から見ても「江入」は入質を意味するものであると考えてよいようである。但し、小右衛門に土地が戻った時にも「江入」とあって問題を複雑にしている。
 そこで結局のところ、「江入」「江引」「より入」の区別は分らないということになる。区別が分らないということは、問題が解決しないということではなく、区別が分らないということは区別がなかったということになるのではあるまいかと考えるのである。何か意味ありげに「江入」「江引」と書いてあるが、要するにこれは他の人へ土地がわたることで、質に入れても、譲渡しても、貸しても、区別なしに、この二つの言葉でいいあらわしたので別に意味の相違はなかった。つまりは入質、譲渡、貸付など、今ならば、それぞれ別の内容をもっているが、この時代はそれ程ハッキリした区別がなかったからいずれの場合も、「江入」「江引」と書けばよかったということだったのだろう。要するに土地の移動であって、今いう売買、譲渡のように所有権が甲から乙に完全に移ってしまうという観念はなくただ土地の動くことを質に入れる、質に売るといっていたにすぎないと思う。厳密な所有権の移転などという観念はなかったのであろう。金策の必要上、一時土地を他人に渡すことを入質といっていたにすぎないということになる。
 要するに土地の移動については極めて気軽な姿勢で構えていた。先祖伝来の土地を手離すというような悲壮観はなかった。これも又、村の共同体制から来ているものと考えられる。これをもう少し追求してみよう。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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