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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第5節:土地の移動

入置申証文之事

 ここに天保八年(1837)杉山村の、地所預り主文右衛門から、地主小右衛門宛に出した「入置申証文之事」という書付がある。(初雁喜一氏蔵)これはこの天保八年より三十四年前の享和年間に「貴殿本高之内壱反壱畝四歩田 金子七両壱分ト銀六匁四分トニ而私方ニ質地ニ預リ置候処」こん度小右衛門がこれを請出すために金子を調達して来たのでその「地代金慥ニ請取申候所実正也然上ハ預リ置候地所証文共に御返シ可申所」その証文が紛失して見つからない。そこでこの書付証文を差出すのである。という意味のものである。
 天保八年から三十四年前といえば享和三年(1803)である。この年に小右衛門が田壱反壱畝四歩を質に入れて、七両余の金を借り、三十四年後の天保八年にこれを受出したが、証文は紛失していたという事実があったことが分る。
 初雁喜一氏所蔵の「本田御定免辻元石帳」は、杉山村本田一筆毎にその反別と年貢高を記し、これを名寄せにし、その移動を記したものである。内容は文化、文政期から幕末にいたるものである。この「元石帳」によって小右衛門の項を見ると

前田壱反壱畝四歩  壱斗六升五合八勺
 小右衛門本高   天保八酉年入
   朱書
    (山中ニ有之候ヲ天保八酉年受出ス)

とある。反別も、年度も、前記のものと一致している。証文の事実と一致しているのである。ところが後に書き入れたと思われる朱書の註が気にかかる。これでは文右衛門から受出したのではなく受出しの相手は山中である。山中と文右衛門は別人である。
 文右衛門の所を見ると

前田壱反壱畝四歩  壱斗六升五合八勺
 享和三亥年  小右衛門分入
   申年 又 甚右衛門江引

とあって文右衛門の分から抹消してある。享和三年(1803)に小右衛門分が入ったことは一致するが、これが出て行ったのは、申の年で相手は甚右衛門である。年と名前も最初の書付と一致しない。
 甚右衛門をしらべて見よう。

前田壱反壱畝四歩    壱斗六升五合八勺
 小右衛門分   申年 市之丞より入
  朱書  (天保四巳年 山中江入 又天保八酉年小右衛門江入)

とある。市之丞とは文右衛門のことである。享和三年(1803)後、天保四年(1833)以前の申の年といえば文化九年壬申(1812)か、文政七年甲申(1824)のどちらかである。この年に甚右衛門は山中へこの土地を渡したのである。従って甚右衛門の名寄せからは朱書のように抹消してある。そこで山中(忠次郎)の項を見ると

前田 壱反壱畝四歩    壱斗六升五合八勺
 小右衛門分  天保四巳年甚右衛門より入
  朱書 (又天保八酉年小右衛門江入)

とある。朱書のところが、最初の小右衛門の朱書に一致している。そして小右衛門の土地が、文右衛門、甚右衛門、山中と引きつがれて、もとの小右衛門に戻った経路も明らかである。して見ると最初の書付けと、「元石帳」との内容のちがいは、一体どういうことになるのであろうか。
 これを解く手がかりが「元石帳」にある。小右衛門本高、前田 壱反五歩の田が、同じ享和三年(1803)に質入れされ天保八年(1837)に本人に戻っている。その移動のあとを辿ってみると、

前田壱反五歩    弐斗五合壱勺
  小右衛門本高 天保八酉年入
 朱書 (嘉兵衛に質地ニ売又 同人より甚右衛門に売置ヲ天保八酉年二月受出ス)

と説明してある。
 嘉兵衛の項を見ると

前田壱反五歩    弐斗五合壱勺
  享和三亥年小右衛門分入 寅年又 甚右衛門江引
 朱書 (又甚右衛門より天保八酉年小右衛門江入)

と説明があり更に註釈して

 朱書 (嘉兵衛より甚右衛門江入置候証文ヲ受出、又小右衛門より嘉兵衛方に入置候証文と取替ル)

 享和三年(1803)に嘉兵衛の手に渡った田地壱反五歩は、つまり文政元年(1818)か天保元年(1830)かの寅年に嘉兵衛から甚右衛門の手に移り、天保八年(1837)になって、本来の所有者の許に戻ったのである。そして逆もどりの経路は、先ず嘉兵衛が甚右衛門から証文を受出し、前に小右衛門から嘉兵衛に入れておいた証文ととりかえて、この証文を小右衛門に返し田地は小右衛門に戻ったのである。土地の移動は質入の形で行なわれ、質入の証文を持っている人がその土地の権利者であった。権利者は、その土地を耕作したり、その土地を又他の第三者にこれも質入の形で譲ったりすることが出来た。然し質地であるから質入主から元金の返済があればこれを返さなければならなかった。大体このようなことが、小右衛門、嘉兵衛、甚右衛門の間で行なわれた土地の移動から読みとれる。
 これで天保八年(1837)文右衛門から小右衛門宛に出した書付と「元石帳」と記載の喰いちがいが解決する。「元石帳」の小右衛門の項の朱書「山中ニ有之候ヲ天保八酉年受出ス」という註記は、結論だけを書いたもので、途中の経路が省略されているものである。小右衛門の田地が七両余の金額で、市之丞(文右衛門)に渡り、市之丞はこれを甚右衛門に移し、甚右衛門はこれを山中(忠次郎)に譲った。天保八年(1837)に小右衛門は質入の元金を出して、田地の返却を申入れた。そこで文右衛門は甚右衛門から請出し、甚右衛門は山中から受出すという形で、山中、甚右衛門、文右衛門、小右衛門、と逆コースで、土地は小右衛門に返った。このコースの説明が省略されたのである。山中から直接小右衛門に返ったのではない。最初の質入証文が紛失したために、改めて元金を受領して田地を返却するという書付が作られたのは、これを説明している。移って行った途を又逆に戻って来たものであることを物語っている。
 「元石帳」 小右衛門の項に

広地かみ田
 壱反廿六歩   弐斗五升八合壱勺
  小右衛門本高  天保二卯年越畑源蔵ニ有之候ヲ喜四郎受出し同人より入

という田地がある。小右衛門本高の田地が越畑の源蔵に渡っていた。それをどうして喜四郎が受出して、その喜四郎が、小右衛門にそれを入れたというのか、喜四郎は無意味の介在者のようである。然し実はこうである。
 喜四郎の分には

 かミ田 壱反廿六歩   弐斗五升八合壱勺小右衛門分入、文政十亥年又越畑村源蔵江引

と記してある。喜四郎は必要な介在者であった。小右衛門から預った田地を源蔵に渡していたので、小右衛門からの申出によって源蔵から受出してこれを小右衛門に返却したのである。これも説明の省略であった。
 以上小右衛門本高田地移動の三つの例によって、

一、土地の移動は質入れの形で行なわれたこと。
二、質入れの証文が土地の権利を表示していたこと。
三、この権利は自由に当事者以外の第三者へ移すことが出来たこと。
四、質入が自由である。他の制約をうけないということから、受出の場合も質取主と質入主の間でこれが行なわれること。
五、質金を返却すれば、質地は質入主に戻るものであること。

などの事実が存在したことがうかがわれるのである。「元石帳」は、文化文政期から天保期にいたる時代の土地の移動を示したものである。帳簿の目的は、高請のある本田が誰の手によって耕作されているか、従って、その本田の年貢負担者は誰であるかを明らかにすることであった。
 私たちはこの帳簿によって、いかに多くの土地がしばしば多くの人たちの間を移動していたかを知り、一驚せざるを得ないのである。そこでこれを百姓忠次郎について具体的にたずねてみよう。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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