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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第5節:土地の移動

杉山村「忠次郎」の場合

 文化十五年(1818)(文政元年)の杉山村「切支丹宗門人別御改御法度証文帳控」(初雁喜一氏蔵)によると、忠治郎は杉山村の名主である。家族は、母、女房、男子丈介、嫁孫、男子喜内の六名である。天明三年(1783)の「田畑惣高帳」にも忠次郎の名があり、常に一町二反から一町八反の間を流動的に耕作していたようである。天明三年の宗門帳では、忠次郎は「年寄」(組頭と同じ)となっており、家族は、母、女房、伯父清右衛門、男子初五郎、同竹次郎となっている。天明三年は、文化十年(1813)より三十五年前である。家族がかわっており、ことに男子の名も異っているので、文化の忠次郎は、天明の初五郎が父の名を襲名したものであろうと思われる。家名を、「山中」といっていた。名主階層の家である。「本田御定免辻元石帳に」よって、忠次郎家の土地移動を辿ってみよう。

1セリ田壱反壱畝拾歩   弐斗三升八合七勺
 セリ田は田の所在地名、石数はこの壱反壱畝拾歩の田に賦課された定額年貢米の高である。その他に註記がない。従ってこれは忠次郎の本高(本来の所持地)である。
2丸田 三畝五歩  壱斗壱升八合四勺
 これも前項と同じ(以下説明を省く)
3ごぜん田 三畝五歩 壱斗壱升三合六勺
4沼田 六畝歩  壱斗八升八合五勺
 「酉年忠右衛門江入」と註記して、右側に傍線がありこれは後に移動したことを示している。
5合ノ町 八畝拾歩   壱斗六升九合六勺
6合ノ町 三畝五歩   五升六合
7合ノ町 九畝五歩   弐斗四升弐合五勺
 「卯年 山中分 武左衛門より入」とある。これは山中分(忠次郎本高)であったものが何時の頃か武左衛門に移っており、それが卯年に再び山中に戻ったという意味である。武左衛門の項にもこの田地について「卯年、山中分、山中江入」と説明してある。
8かミ田 八畝廿歩   壱斗八升弐合弐勺
 「未年、小右衛門分 九兵衛より入」これは小右衛門本高の田が九兵衛の手に移っており、そのが未の年に更に忠次郎に移ったのである。九兵衛の項を見ると「小右衛門分 酉年大蔵院より入 未年又山中江引」とある。してみると、これは小右衛門から直接九兵衛にいったのではなく、その間に大蔵院が介在していたことが分り移動の経路は複雑である。尤も大蔵院の項には、この田についての記載がない。その理由は分らない。
9谷ッ 八畝廿歩   壱斗六升四合七勺
  「未年 喜四郎分 喜四郎より入」
10滝の入 三畝四歩  六升八合壱勺
  「未年 山中分 市之丞より入」
11志も田 五畝歩   壱斗四升九合三勺
  「戌年 太兵衛分 孫八より入」
12溝堀 九畝歩   弐斗九升六合七勺
  「戌年 惣七分 惣七より入」
13合ノ町 三畝拾五歩   七升壱合三勺
  「亥年 山中分 浅右衛門より入」
14ほそ田 七畝四歩   壱斗五升四合九勺
  「亥年 喜四郎より入」(文政二卯年同人江引)   移動の傍線を施してある。
15同所 七畝歩   壱斗四升七合三勺
  前項と同じ。
16溝堀 壱反拾壱歩   弐斗五升三合四勺
  「亥年 伊右衛門分 弥右衛門より入」
17合ノ町 七畝歩   壱斗壱升八合弐勺
  「亥年 山中分 甚右衛門より入」
18沼田 五畝四歩   壱斗六升五合三勺
  「亥年 山中分 甚右衛門より入」
19溝堀 八畝歩   壱斗九升五合五勺
  「酉年 武左衛門分 武左衛門より入」
  〆 弐石九斗壱升三勺   移動の傍線を施す。
20杢ノ入 六畝歩   壱斗壱升八合壱勺
  「文化十三子年 武左衛門分 武左衛門より入」
21溝堀 八畝歩   弐斗壱升七合弐勺
  「文化十三子年 市右衛門分 市右衛門より入」
  〆 三石弐斗四升五合六勺   これにも傍線がある。

 さて、1号から19号までの石高を合計すると、3石9升8合8勺となる。依って、傍線で抹消したもの三筆の中、第4号の1斗8升8合5勺を差引くと、帳簿の合計高2石9斗1升3勺と一致する。従って他の二筆の移動はこの合計には無関係であることを示す。ということはこの集計の行なわれた時点は、少くとも、文政二年以前であることが明らかである。次に21号までの合計高は19号までの合計高に文化十三年に加った二筆の分を足したものである。これによって19号までの集計の時点は、文政二年より更にさかのぼって、少くとも文化十三子年以前でなければならない。そこで次のことが知られる。文化十三年以前のある年に忠次郎は、年貢高2石9斗1合3勺の田を持っていた。その内容は個有のもの、即ち忠次郎本高に当るものが十筆であり、その中五筆は、他にあった本高が戻ったものであること。その他八筆は他人名義のものが忠次郎に入ったものであり、更に一筆は自分名義のものを他に譲ったその結果であるということである。
 反別では忠次郎分56畝28歩、他人分64畝6歩、年貢高では、忠次郎分1石3663、他人分1石5440で個有分の方が少い。尤もこれは、忠次郎本高がこれに限られているという訳ではなく、現にこの外に酉年、忠右衛門に入れた第4号があるし、その他にもこの記載には現われていない田で、忠次郎分のあることも想像できる。次にこの記載にあらわれた田地移動の年月を検討してみよう。
 酉の年には4号が出、卯の年には7号、未年には8、9、10の三筆、戌年には11、12の二筆、亥の年には13から19の七筆が入って来ている。ところでこの干支には年号がない。それで、この移動の年を的確に定めることは出来ないが、文化十三年子年以前の酉は十年、戌は十一年、亥は十二年、未は八年、卯は四年である。年号を併記せず、単に干支のみで年をあらわすということは、年号を併記する必要がないためと考えられるから文化十三年に直接した年々であると断定してよいと思う。とすれはこの記録は文化十二年亥の年であり、従って文化四卯年から文化十二亥の年までの九年間にこの土地の移動があったと考えられるであろう。そして文化十二年にはとくにその移動が大規模であった。

21号までの集計高は文化十三年現在の年貢高である。次に三年後の文政二卯年になって次のような移動があった。
22沼田六畝歩 壱斗八升八合五勺
  「文政二卯年 山中分 忠右衛門より入」  これは4号文化十卯年の田が戻ったのである。
23溝堀 四畝七歩   壱斗壱升四合九勺
  「文政二卯年 利八分 嘉兵衛より入」
24同所 四畝弐拾歩   九升八合壱勺
  「文政二年卯年利八分 嘉兵衛より入」
25ウツギ花 九畝拾六歩 弐斗弐升六合五勺
  「文政二卯年長蔵分 嘉兵衛より入」
  (文政十三寅年 又嘉兵江引)異動の傍線あり。

 この四筆に14、15の二筆を差引してその合計、石高は「三石五斗七升壱合四勺」となっている。その翌年文政三年には次の記載がある。

26水道端 壱畝八歩  弐升七合五勺
  「文政三辰年 孫八分 孫八より入」
27宮ノこし 七畝歩 壱斗七升壱合
  「同年 孫八分 同人より入」
28谷ッ 壱反歩  壱斗五升六合壱勺
  「文政三辰年 喜四年分 喜四郎より入」
  〆 三石九斗弐升六合

 更に記載を辿って先に進んでみよう。

30くつがた 八畝歩   壱斗七升三合八勺
  「文政七申年孫八分 嘉兵衛より入」
  〆 四石九升九合八勺
31ウツギ花 七畝拾歩   壱斗七升四合弐勺
  「文政八酉年 長蔵分 長蔵より入」
32ごぜん田 壱反三歩 弐斗三升九合九勺
  「文政八酉年 市之丞分 文右衛門より入」
  〆 四石五斗壱升三合九勺
33前田 壱反弐歩   弐斗壱升八合六勺
  「文政十亥年 市助分 市右衛門より入」
34谷の前 五畝歩 五升九合九勺
  「文政十亥年 兵吉分 兵吉より入」
  〆 四石七斗九升弐合四勺
     内 弐斗弐升六合五勺 文政十三年寅年嘉兵衛江引

これは25号の括弧内の註に相当するものである。

残而 四石五斗六升五合九勺
外ニ35畑があへ 弐畝廿三歩   六升七合六勺
 「惣兵衛分 文政十三寅年  弐左衛門より入」
36杢の入 壱反廿四歩   弐斗八升九合四勺
  「元右衛門分 文政十三年寅年大蔵院より入」
(右【上】の通り成共 大蔵院に売置候を元右衛門受出し同人より入) 朱書 又元右衛門江入 傍線がある。
  〆 四石九斗弐升弐合九勺

 「 」内の註は大蔵院より入とあるが、実は( )内で更に説明しているように、大蔵院に入れておいた土地を元右衛門が受出して、改めて忠次郎に入れたものである。大蔵院の項には「元右衛門分入、文政十三寅年同人受出し、又丈助江入」とあるのと一致する。そして最後は朱書のように元右衛門に戻ったのである。
 以上で文政年間を終り次に天保年間と推定されるものが十六筆あり、石高の集計なしに記載を終っている。次にこれを掲げる。

37前田壱反壱畝四歩  壱斗六升五合八勺
  「小右衛門分 天保四年甚右衛門より入」
 朱書 又天保八酉年 小右衛門江入
38宮田 壱反壱畝廿九歩  三斗壱升六合八勺
  「浅右衛門分」  朱書 甚右衛門より入
亥年(文化十二年)に浅右衛門から甚右衛門に入れたことが両者の項に記されている。
39前田 七畝三歩   壱斗五升四合弐勺
  「三右衛門分」  朱書 甚右衛門より入

 甚右衛門の項に「三右衛門分、文政二卯年市之丞より入」とあり、市之丞の部にも「三右衛門分入 文政二年卯年又甚右衛門江引」とあって両者が一致しているが、三右衛門の部は名前だけが残っており、田地は一筆も残っていない。おそらく市之丞に入れた年代に一切の田地を手離したのであろう。

40同所 五畝九歩   壱斗弐升九合五勺
  「三右衛門分」  朱書 甚右衛門江入   この田は前の39号と全く同じである。
41牛ヶ沢 半分山成 四畝歩   八升六合九勺
  「こめ分」  朱書 天保八酉年 甚右衛門より入

 甚右衛の部には「こめ分 寅年 蔵身房より入」とあり、蔵身房の部には「こめ分卯年儀左衛門より入、寅年又甚右衛門江引」とあり一致している。こめは三右衛同様空欄である。儀左衛門の名は登載されていない。

42本田 四畝廿五歩 壱斗三升壱合弐勺
  「甚右衛門分」  朱書 天保八酉年同人より入
43牛ヶ沢沼上 八畝歩   壱斗三升三勺
  「山中分」  朱書 甚右衛門より入
44牛ヶ沢沼下半分 七畝拾五歩   壱斗九升八合六勺
  「山中分」  朱書 甚右衛門より入
45牛ヶ沢沼下半分 七畝拾五歩   壱斗九升八合六勺
  「山中分」  朱書 甚右衛門より入

 この三筆は同じような註記になっているが、甚右門の部を見るとそれぞれ異った経路をとっている。43号は「山中分入」とあるだけで、その年代も不明。44号は「山中分未年 九兵衛より入」とあり、九兵衛には「山中分甚右衛門江入」とあるから、何時の頃か山中から九兵衛に移り、文化八年未年にこれが甚右衛門に移ったものと思われる。44号は酉年(文化十年)忠右衛門から入ったとある。九兵衛と忠右衛門との相違があるだけで他は同じである。忠右衛門の部にはこの田地に関する記載がない。いずも、もと山中分であったものが戻ってきたのである。

46ウツギ花 三畝拾六歩   八升三合九勺
  「武右衛門分」  朱書 喜四郎より入
47ウツギ花 壱反歩   弐斗六升四合七勺
  「武右衛門分」  朱書 喜四郎より入

 喜四郎の部にはこの二つとも「武右衛門分入 (朱)山中江入」とあるだけで移動の年代は不明である。武右衛門の部には記載がない。

48みぞほり 七畝八歩   壱斗五升七合八勺
  「兵吉分」  朱書 甚右衛門より入

 これは寅年(文化十五年)兵吉から甚右衛門に入れたものである。

49前田 壱反廿歩   壱斗六升弐合壱勺
  「小右衛門分」  朱書 甚右衛門より入

 この一筆は移動を示す傍線があり、あとで書き加えたと思われる筆で「又天保十亥年 小右衛門受出す」とある。従って記帳の当時は移動前となるわけであるから、37号以下は天保十年よりも前、文政十三年(天保元年)以後のものであることがわかる。

50前田 壱反拾五歩   弐斗六合七勺
  「武右衛門分」  朱書 市ノ丞より入

 市之丞の部には「武右衛門分入 酉年隠居面引」とあり、市之丞が隠居するとき隠居面として持っていった。それを山中に入れたのである。

51かミ田 六畝歩   壱斗四升二合六勺
  「九兵衛分」  朱書 忠右衛門ニ有之候ヲ九兵衛受出し同人より入
52同所 六畝拾五歩   壱斗七升六合五勺
  「九兵衛分」  朱書 忠右衛門ニ有之候ヲ九兵衛受出し同人より入

 この二筆は全く同じ註がついている。忠右衛門の部を見ると、両者とも「九兵衛分、天保二卯年越畑文次郎(52号は越畑宇兵衛)ニ有之候ヲ九兵衛受出し同人より入」とある。そして朱書して、又「同人受出し又山中江入」と書いてある。九兵衛の部を見ると、九兵衛が文治郎に入れたのは文政八酉年であり、宇兵衛に入れたのは文政十一子年である。九兵衛は越畑の文次郎、宇兵衛から受出して忠右衛門に入れ、又、受出して山中へいれたのである。この操作が行なわれたのは文政八酉年から天保十亥年にいたる二十年間のことである。

第十一表|スキャン画像
第十一表

 以上忠次郎に関する土地(田のみ)移動の状況を表示すれば第十一表であり、文化四年(1807)から天保十年(1839)までの三十三年間に、移動の件数は52二、反別にして484畝17歩であり、入ったものが424畝13歩、出たものが60畝04歩となる。従ってその差額の364畝09歩が忠次郎所持地となったわけである。この外に忠次郎は移動には関係ない個有の田が2反9畝あるから、天保十年当時は384畝28歩の水田を所持していたわけである。大地主といわなければならない。この土地異動は村落共同体に対してどのような意味をもっていたものであろうか。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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