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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第4節:年貢の割付と皆済

貢納と村の責任

 そこで気がつくのは、年貢は村単位で割付けられ、納入の責任者は「村」であったが、これは個人の責任が比較的に軽視されていたのではないということである。個人は直接領主に対しては責任が明らかでない。個人の責任は領主に対しては間接的であったが、「村」に対しては直接につながっており、責任は極めて明瞭であった。村に対する個人の責任は却って重大だったわけである。年貢未進の百姓が出れば、年貢納入に大きな支障を来たし、それは「村」や村役人に対して甚だしい迷惑となるからである。「村役人」は年貢完納の義務を負わされていた。これらのことを示すものに、本村の史料ではないが、「割付目録拝見証文」というのがある。これは年貢の割付についても皆済についても、村中百姓一人残らず立合い、読めない者にはよく読んできかせて、全て異議なく納得したものであることを申立てたものである。

 去辰御年貢御割付米金、皆済目録被御渡候に付、村中大小の百姓入作の者迄不残立会、御割付皆済目録共委く拝見仕、無筆之者には再応為読聞呑込知得心之上、割合勘定仕、少しも申分無御座候、若重而御割附皆済目録拝見候得共、無筆無算故割合勘定之義不存などと申立、及出入候者有之候はば、何様の落度にも可被仰付候、依之惣百姓入作之者迄、連印差上申処仍如件
某郡 某村
               惣百姓 印
               百姓代 印
               組頭  印
               名主  印

 年貢の割当には村中の百姓が残らず、耕作の大小を問わず、他村から入作の者まで出席するのである。そして字の読める者は割付書を、自分の目で見、読めないものは、読んで貰って、その内容を呑込み、得心する。その上で割合勘定をする。全く何の申分もない筈である。村役人はこのように公平に正確に完全に税の割付をしたのであるからその手続については、何の手落はないし、百姓たちも自ら割付作業に参与し、全て納得したのであるから、これに対してとや角申す筋はないわけである。だから若しあとで異議を申し立て、字が読めないからとか、計算が出来ないから知らなかったなどといってもそれは通らない。不当な主張である。だから万一そのようなものがあったらどんな制裁を与えられても文句はないというわけで、百姓全員と村役人が連印で文書を提出しているのである。
 さて、あとで「及出入候有之候はば、何様の落度にも可被仰付候」という言葉には、あとで故障を申立てる者があるかもしれない、うまく行かぬ場合があるかもしれない、というかまえは全くないのである。これだけ手段をつくしたのであるから、もはや言ふべき欠点はどこにもない。万善(ばんぜん)の措置である。違反者などは絶対にあり得ないという前提がその奥にあるのである。どんな制裁を受けても結構ですというのは、うまく行かなかった時は、制裁を受ける。それで事の結着をつけるというのではなく、そのようなことは、仮りにもあり得ないという立てまえなのである。そのような事態は全く許されないのである。これだけに念をいれ、万善の措置をした結果であるから、大小の百姓個々についても、村役人にとっても、年貢がうまく行かぬということは許されないのである。全ての人に全く同じように重い責任となったのである。全ての百姓が個々の責任を負うと共に村全体の責任を負うにいたったのである。百姓はお互同志は勿論、村の代表者の村役人に対してその責任をのがれることは出来ない。自分一人が悪者になって事を始末するというやりかたは許されない。村役人は、何某の百姓が悪いからとして何某だけを責めても済まされない。悪い百姓をつき出してそれで結着というわけにはいかない。どこまでも割付の年貢を果さなければその責任はのがれられないのである。要するに村に課された年貢皆済の責任は、村の役人は勿論大小の百姓個々にも同じようにその重荷がかかっていたのである。
 私たちは、「年貢目録拝見証文」を見て右【上】のような意味を読みとることが出来る。この証文の書かれたその基礎には右【上】のような客観的事実が存在した。それは慣例上の言葉の形式的な操作ではなく、年貢と村との関係に右【上】のような現実が在ったのだと考えられるのである。そこでこの年貢皆済のために百姓たちはどのような営みをなしたかということが課題となってくるわけである。先ず皆済の手続をみておこう。尚、この「割付目録拝見証文」に当るものは、まだ本村の古記録の中から発見出来ない。然し村の事態が全くこれと同じであったことは、前掲の割付状にも「百姓不残立会無相違致内割」とあるによっても知られるのであって、拝見証文と同じ方法が行なわれていたと考えてよいのである。
 年貢が皆納になると、さきに数回に納入した仮受領証と引換えに一紙の証書を交付する。これを皆済目録というのである。然し本村で見出した皆済目録は、勘定目録を提出し、これに裏書きした形式のものである。遠山杉田角太郎氏所蔵の皆済目録十数通はいずれもこの形式によっている。一例として弘化二年(1845)のものをあげると

    卯御年貢米永御勘定目録
 一米拾八俵ト           卯 納辻
   壱斗弐升二合弐勺    但  口米共
                  四斗入
                  御蔵納
 一永拾壱貫九拾五文壱分   但 卯 納辻
                  口永共
                  本途納
 右之通去◇卯御年貢米永納方御勘定目録差上申候通相違無御座候為後日依而如件
   弘化二乙巳年二月
             遠山村
              百姓代
                 磯右衛門  印
                 兵兵衛   印
              与領 次郎右衛門 印
                 左右造   印
              名主 儀左衛門  印
 (裏書)
 表書之通卯年御年貢米永皆済相遂候処相違無之候以上
              大野友吉郎  印
              石谷本次郎  印
              橋本柯之助  印
              上羽又左衛門 印
              田崎太兵衛  印

 これで見ると、年貢皆済は対象年度の翌々年である。杉山村割付は当該年度の十月となっていた。同村の勘定目録では二月から上納をはじめている。これ等賦課と、納期の問題については後でしらべることにする。遠山村勘定目録中「御蔵納」とあるのは、現物を「御倉」に納めるという意味であり「本途納」は、本税の納め高という意味である。吉田の小林利平氏所蔵の天保四年(1833)正月「辰田畑年貢皆済目録帳」も、勘定目録の形式をとっている。
 年貢の割付と収納は、村の共同体制に対応してとられた即時的な政策であり、それが又、一層この体制をかためたものであると考えられる。血縁や地縁の小グループが、村の地域の共同体に団結する一つの契機はこの政策にあったと考えてよいと思う。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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