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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第4節:年貢の割付と皆済

勘定目録

 年貢は村の単位で定められたから、その上納も村単位で行なわれた。次に掲げる「田畑御勘定目録控」は寛政八年(1796)の年貢上納の経過を記したものである。

 一米百五俵    本田御定納免納辻
   米四斗壱升八合六勺  新田畑成共ニ納
  〆 百六俵八合六勺
    弐俵弐斗四升    右口米

納合百八俵弐斗四升八合六勺
 (これが寛政八年の年貢米の割付高であるが、この中から次のような諸経費を差引いている)

内  米 弐俵       餅米 上納
   同 壱俵       年寄弐人江ヒ下
                 (年寄への報酬)
   同 三俵       名主御給米ヒ下
   同 壱斗七升五合   鎮守御寄附米ヒ下
   同 壱斗七升     定堰扶持ヒ下
                  (堰の維持費)
   同 壱俵七升五合   定伝馬扶持ヒ下
   同 五俵壱斗六升七合 定沼堀代ヒ下
   同 弐斗壱升     土手人足扶持ヒ下
 引米〆 拾四俵壱斗弐合
  残而 九拾四俵壱斗四升六合六勺
      弐俵壱斗四升  右壱升米
             但し四斗入

(壱升米というのは、一俵について一升宛徴収した付加米らしい。「口米」の外にこの付加米があったようである。九四俵だから九斗四升、俵にして二俵と一斗四升であるこれを加えてその合計は)

納〆九拾六俵弐斗八升六合六勺 御払米
 代金三拾八両弐分弐朱 銀三匁六分九厘

(年貢米を払下げて、それに相当する代金を納付するという型になっている)

一永九貫五百七拾九文    畑 御年貢
一永 壱貫文        山 御年貢
 二口〆 永拾貫五百七拾文
 田畑山 納合金四拾九両壱分四匁七分壱厘
  内永弐百四拾七文  定引永
残而永拾貫六百四拾弐文 但し口永共
 金ニ〆拾両弐分弐朱壱匁弐厘(永を金に換算した額)

 金納の場合は大体一期を三、四回に区分して、内金を徴収する。その年に甚だしい増減のない場合は、毎年一定の額を納めておき、最終回に過不足を精算することになっていた。これは次のように記してある。

 金 四両弐分     畑御年貢 二月上ル
 金 三両壱分弐朱   畑御年貢 六月上ル
 金 弐両三分七匁四厘 畑御年貢 九月上ル
 金 壱両弐分     御仲間給
 金 八両      十一月上納
 上ヶ金〆 弐拾両弐朱七匁四厘
 金弐拾九両五匁壱分七厘   上ヶ金
右之通り相改差上申候  以上

 寛政八年(1796)辰十二月○日に名主太郎右衛門の提出した納付書である。右【上】のような経路方法で年貢上納が行なわれたのであるが、これに対応して、百姓個々から同じ時期に年貢徴収のあったことはいうまでもない。名主の許に年貢が集まると、名主はその納入者に対して請取書を与えた。これは杉山村小右衛門の例に見られるように、一冊の通帳を作り、年々これに書込んでいくのが通例であったようである。文政十一年(1828)子二月日改「田畑山御年貢請取帳」をみると

 卯二月廿五日
 一壱貫九百五拾三文  畑御年貢請取
 卯六月廿八日
 一弐朱ト六百拾六文  三納請取
            (三納は畑、新畑、山)
 卯九月二日
 一壱貫弐百七拾六分   畑御年貢請取
 卯 十二月日
 一金壱分弐朱ト五拾四文  石代
 右慥ニ請取申候

とあって、時代は異っているが、納期も税の種類も御勘定目禄と一致している。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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