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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第4節:年貢の割付と皆済

年貢の割付

 昭和四十一年度(1966)の町の農業所得の出し方を見ると、一反歩当り田表作25700円、裏作7300円、普通畑24400円、養蚕桑畑67300円というように、その年の作柄の豊凶や生産者値段などを資料として、反当の所得額を定めこれを基準にして、個々の経営面積に応じて、その人の所得総額を算出している。これを課税標準として、住民税を決定する。その個々人の税が集積されて村税の総額がきまっている。固定資産税も全く同じで、一反当り、一坪当りの土地や家屋の評価額が定っており、これに個人の所有面積や坪数をかけて、課税標準を算出する。税ははじめに個人の段階で定り、町の税額はその総和にすぎない。ところがこの割付状によると、この手続が逆である。先ず村の総石高を掲げ、課税の対象にすることの出来ない田畑をその中から差引いて残りの田畑についてその年の年貢高をきめてしまう。村全体の年貢高が先ずきまるのである。そしてこれを村々に示して右【上】のようにきめたから「百姓不残立合無相違致内割」して霜月の二十日までに納付せよというのである。はじめに村の段階で税額が決定し、それに応じて個人の納付額が算出されるのである。このちがいは何を意味するか。それはいうまでもなく今の納税義務者は個人であるが、この時代の納貢責任者は村であることを示している。今の徴税令書の宛名が個人名であり、この割付状の宛名が「杉山村名主百姓」となっているのもこれを示している。納貢責任者は村の百姓総体である。このことによって次の問題が生じる。若し未納の生じた場合、今ならそれは全く個人の責任であって、それが隣家であろうと友人であろうとお互に関係はないのであるが、この時代ではそうはいかない。若し個人に未進が出ると、それは村全体の年貢上納にすぐ響いて、重大な支障となるのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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