第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
二、村の生活(その一)
第2節:領主と村
領主の任務
私たちの村々では、領主の行政的支配があまり浸透(しんとう)していないと考えた。然し旗本領は幕府直轄地ではない。とも角領主がいたのであるから、それぞれの所領支配がなければなない。三千石以上の旗本になると、大名と同じような支配機構(きこう)をもつものがあったというが、その旗本の行政内容はどんなもであったか。一応これを調らべておこう。旗本の所領支配は幕府直轄地の方式に準拠(じゅんきょ)したと思われる。そこで天領の郡代、代官の職務内容をかかげて旗本の領地支配のあるべき姿を描いてみることにする。
幕府は先ず郡代、代官の心得べき民政の根本方針として一、民は国の本であるから常に民の辛苦を察して、飢寒のうれいのないようにすること。
二、国内が豊になると、民心がおごり、家業におこたりがちになるから、衣食住がぜいたくにならないようにすること。
三、民と役人とが相互理解につとめ、上下疑いなく信頼し合うようにすること。
一、役人は身辺をきれいにし、又農事の研究もして、年貢の徴収に慎重(しんちょう)を期すること。下役人まかせにせず、率先業務にあたること。
一、領内の民を私用につかったり、民との間に金や物を借り貸ししたりしないこと。
一、堤、川除(かわよけ)、道路、橋梁などは、大破に及ばぬ先に修理すること。百姓間の不平や争論は軽いうちに聞き届け、依怗(えこ)ひいきなく大事にならぬよう心懸けること。
一、役人の交替、私領へ編入の時は、年貢未進や残務のないよう常々油断なく勤務すること。などを諭告(ゆこく)している。これは延宝二年(1674)のもので、地方行政の標準的な教令である。
代官役所の事務処理は、地方(じかた)と公事方(くじかた)の二つの係りに分けられていた。
「地方(じかた)」は地理・租税・出納・帳簿及びこれ等に関する事務を掌どるものである。その項目は大体次のようになる。○宗門人別帳を各村より差出させて、宗旨を改め、管内の家数や人口を集計し、前年との比較増減を勘定所へ上申する。
○五人組帳を出させて検査する。
○夫銭帳を各村から提出させ、点検の上奥書と証印をして下附する。
○定免を出願したときは、可否を審査し、可と認められるものは、前々の租額に多少増額をさせ勘定所に伺った上許可する。
○定免の継続が出願された時は審査をとげ、経伺(けいし)の上許可する。
○免上、本免入、免直、田畑成、畑田成、潰地、換地、起返その他年貢の増減に関する土地を実施臨検する。
○河川の堤防・用悪水の圦樋(いりひ)、橋梁などで官営のものを修繕すること。
○小物成は水車運上、質屋稼、冥加永などの雑税で、新規又は年季切替を出願したときは、比隣障害の有無、税額の多寡(たか)を審査し経伺の上許可すること。
○官林や官道の並木を管理し、損竹木は経伺の上払下げること。
○非常時の備として、各村の郷倉に保管してある穀物を巡検すること。
○酒造家を巡視して、密醸、過醸を警戒すること。
○出水のとき堤防や橋梁の防備をすること。
○新田を検地し反別石高を査定し、検地帳を村里へ下付すること。
○荒地の高反別及び減租額を調査すること。
○稲の秋熟する時、坪刈をして年貢の額をきめること。
○年貢割付を調整して各村へ配布すること。
○年貢の米金を収納して、江戸、その他規定の倉庫に廻漕送納すること。
○皆済目禄をつくり、内米金の都度出した小手形と引替えて、村々へ下付すること。
○天変地妖のため、家産を失い、凍餒(とうすい)に迫る窮民があったら、郷村をあげて貯蔵米を分配し、規則に従って夫食料、農具代、年賦貸与などを実施すること。
○鰥寡孤独(かんかこどく)の救恤(きゅうじゅつ)、孝子貞婦義僕の褒賞(ほうしょう)、養老賜米等をなすこと。次に「公事方(くじかた)」は警察、裁判に関する事務を司るもので、その項目は大体次のようになっている。
○管内村民の風紀を正し、博奕・隠売女・芝居興行の類を警戒すること。
○管内人民を保護し、凶賊博徒を逮捕(たいほ)し、審判の上経伺し所刑をすること。
○利解願(説諭のねがい)や公事出入(訴訟)をしらべ経伺の上裁決し、又は内済(和解)を許すこと。
○変死人、負傷者、出火などのあったときは検使を出して調査させ、経伺の上処断すること。
○賭博の中で敲五十の軽犯に当るものは専断する。
○欠落(逃亡)人は、親類、組合、村役人へ捜査(そうさ)を命じ、刑事に関係ないものは百八十日経て人別帳から除き、刑事に関係するものは永尋ね(無期)を命ずること。
○久離勘当(きゅうりかんどう)をして、人別帳より除くことを請うものがあったら、事情をしらべて許否をすること。
○猟師や、鳥獣の害を防ぐため、鉄砲を持ちたいと願う者があったら許否すること。幕府直轄地の行政事務は大体右【上】のようなものであった。私たちの村々を知行する旗本たちも、少くともこの程度の行政は必要であり、それを執行する責任を負っていた筈であったと考えてよい。然し果してこの責任は、余すところなく果たされていたであろうか。領主たちは案外領内の行政には、無関心だったようだというのが、これまでの私たちの主張である。一村内に二つ以上の旗本領が錯綜(さくそう)していたり、郡内のあちこちに散在していたりしたのでは、到底、統一した行政や、行届いた民政が出来るものではないと考えるからである。そして領主の権力がその領地にあまり浸透していなかったということは、村民のためには却って幸いであったということも出来る。村の自治体運営に委される面が大きくなるからである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)