第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
二、村の生活(その一)
第2節:領主と村
領主支配と村の自治
川島の例は、領主と村との関係についてもう一つのことを教える。それは領主と村との間にはそれ程強い結びつきはなかつたらしいということである。領主にとってはその支配地が村のどの地域に存在するか、他の領主との境界はどこにあるか、支配の百姓がどの辺に住んでいるのかということはさして重要なことではなかったということが分るからである。額主にとって大事なことは、多分給与された知行の石高に応じて、年貢をいくら収納出来るかということであろう。年貢の収納が円滑に続く限り、知行地に対する関心はさほど緊張を要しなかったと察せられるからである。
さて知行地に対する領主の関心が薄いということは、それだけ支配者の権力が浸透していないということになる。権力の浸透が弱いところには、強制や束縛などが顕著(けんちょ)にはあらわれない。しかもそれに反比例して百姓の側には自由の立場がひろくのこされるわけである。そのために、村の自治が幅ひろく存在したと考えてよいだろう。こうして私たちは、江戸時代、とくに元禄以降の旗本領主の存在は、村の生活に大きな影響をもっていたとは考えないのである。それで四給、八給と村を分割支配されても、村の結合には関係なかった。支配者が数人いても、それは村民の生活にとってそれ程気にかかるものではなかった。何という旗本の知行所であるかということは、百姓の生活にとって、さほど決定的な重要事ではなかったと思うのである。「泣く子と地頭」というたとえがある。「悪妻は一生の不作」といわれるように、地頭のよしあしは、百姓の運命を左右した。その例は沢山ある。然し私たちの村々では、領主と百姓との間に、前者が後者の運不運を定める程の密着がなかった。両者は間柄は割合に疎遠(そえん)であったのである。その資料をもう一つ挙げてみよう。
「村々地頭姓名石高下調帳」によって、わたくしたちの村々の領主名を紹介した。これは文政十年当時の状態である。この時領主たちの支配地は、実は単に私たちの村だけに限らなかったのである。それは意外な程数多く、そして何の連絡もない地点にポッリポッリと散在していた。そしてその知行地のいずれが主でありいずれが従であるか、その区別もなかったようである。次にその実情を掲げると▽清水家
出丸中郷144、下新堀334、野本2606、葛袋318、押垂383、長楽48、正代732、大橋56、下玉川44、五明301、上玉川86、日影82、大附16、下瀬戸78、上瀬戸78、上古池151、増尾131、笠原149、上横田99、能増88、(千手堂114、大蔵103、将軍沢137、古里26)
▽秋元但馬守
飯島205、安塚41、野田200
▽内藤主膳
古氷37、毛塚79、上玉川519、熊井275、(遠山79、広野150)
▽黒田豊前守
神戸539、角山237、奈良梨34、和泉73、(越畑78)
▽羽太求馬
赤沼52、(越畑78)
▽金田治三郎
田黒165、田中202、桃木145、高倉107、古池194、下里615、大塚372、和泉291、(平沢235、鎌形685)
▽石黒喜一郎
本郷181、飯田172、和泉76、(大蔵177)
▽島田藤十郎
別所61、(広野109、根岸72)
▽大島飛騨守
厚川68、小川495、(将軍沢26)
▽林内蔵頭
高谷441、(古里61)
▽菅沼又吉
伊勢根74、(吉田19)
▽松崎藤十郎
伊子289、(古里17)
▽猪子英太郎
中尾81、菅田60、(菅谷202、太郎丸100、勝田193)
▽森川美濃守
山田706、大谷758、(杉山194)
〔註〕数字は石高、石以下切捨、括弧内は本町内の知行地と石高併給地を持たないのは、領主名27のうち、大久保、木下、酒井、山高、山本、折井、松下、永井、市川、横田、森本、内藤、有賀の13で約半数あるが、これも比企郡内だけのことで、他郡のことは分らないのである。おそらく、他のどこかにいくつかの給地を持っていたのであろう。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
御三卿の清水家の如きは、比企郡内だけで24の給地をもっている。これでは到底百姓との密着は考えられない。民政の存在は期待出来ない。大学の先生が東京都内の学校を三校四校とかけ持ちで講義をしてあるくのと似ている。そこでは知識の切売りは存在するが師弟の人間的触合(ふれあい)は行なわれ難い。真の教育は実のらない。領主は各村の領地から、事なく円滑に年貢が納まればそれでよいのである。甲大学で二万円乙で三万円と講義料をかきあっめることを仕事とする先生もあるそうであるが、この点も似ている。清水家だけではなく、併給地の多少にかかわらず、領主たちの民政に対する関心は同じ性格で同じ程度のものであったろうと考えられる。