第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
二、村の生活(その一)
第2節:領主と村
用語の整理
さてこの辺でいままでに出て来た言葉の二、三について、その内容を整理しておこう。
▽旗本 江戸時代には一万石以下の幕府直属の臣を旗本御家人といった。旗本は将軍に拝謁(はいえつ)することの出来るもの、即ちお目見え以上のもの、御家人は拝謁の格式のないものである。
旗本は百石より一万石未満の知行所を貰ったが、御家人は原則として土地は与えられず、切米、扶持米などの俸禄をうけた。御家人の封禄は最高二百六十石、最低給金四両一人扶持であった。
旗本は主に江戸に近い関東及び東海地区に知行所をもち、三千石以上になると、ほぼ大名と同様の支配機構をもっていた。大禄の旗本は家老、給人、中小姓、側用人、納戸役、近習役、勘定方、地方役人、蔵元締等多くの家臣をもち、その領地には陣屋、侍屋敷、穀倉、牢獄などを設けて、民政刑罰の庶政を執行した。ただ死刑囚を処断することは許されていなかった。
「村々地頭姓名石高下調帳」に出てくる領主は私たちの村で、御三卿の清水氏の外は大体旗本であったと思われる(137頁参照)。石高は、秋元446石、内藤1139石、黒田961石、羽太130石、金田3011石、石黒606石、島田170石、大島589石、林502石、菅沼93石、松崎306石、猪子637石、森川1658石(前掲の数字で石以下は切捨ててあるから実際はこれよりも若干上廻る。併給以外の領主は略した。) という数字が出るから三千石以上の金田氏、千石以上の内藤氏、森川氏などは、ある程度の支配機構が備っていたと考えるべきである。▽知行 近世になってからは、土地の一円的支配を意味するようになり、大名領地は家臣に分封されたが、大名の直轄地(蔵入地)に対してこれを「知行地」、「給地」といい、分封をうけた家臣を「知行人」、「給人」、「地頭」などといった。又、一万石以下の所領を「知行所」といい、知行者を「地頭」といったともある。従って、旗本はすべて「地頭」と唱したともいえる。
▽地頭 各藩の給人、即ち知行所に配置された藩士、この説は前項の前半と一致する。
▽給地 各藩の家臣に対して、知行として、年貢の徴収権を認めたのを給地といい、この給与を受けた者を給人といい、又地頭という。
▽領分 大名に給せられた土地を「領分」といい、旗本、陪臣の場合は「知行所」御家人のときは「給地」というという説がある。この「給地」は前項と異って来る。要するに言葉の内容や使い方が時代と地域によって様々であったことを語るものである。
▽代官所 「村々地頭姓名石高下調帳」には領地を分けて、「御領地」「領分」「御代官所」「支配所」「知行所」の五つに書き分けてある。「領地」は一万石以上の領主の領地、「支配所」は幕府の直轄地、知行所は一万石以下の領主の支配地、という説明がある。御代官所は支配所と同じであろう。そして、清水家が御領地、秋元但馬守と黒田豊前守が御領分、山本大膳が支配所となっている。他は全部知行所である。前項によれば、秋元と黒田は大名である。
ところが、川島地区元禄十二年(1699)の図面の説明は、 黄…出羽様御領地、青…藤十郎様御領地、赤…太郎左衛門様御領地とあって、委細構わず「御領地」一本槍である。「古物改口上書写」では、高谷太兵衛様御支配所、黒田豊前守様御領地、島田藤十郎様御知行所というようにはっきりと書分けてある。藤十郎は知行所、太郎左衛門は支配所でなければならない。これを「御領地」で片付けてあるわけである。このように言葉を検討して行くと私たちの用語は、必ずしも厳密に江戸時代の内容を具えたものではないことがわかる。極めて常識的な意味でつかっているにすぎないことを注意しておく。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)