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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第2節:領主と村

広野村四給村

 文政四年(1821)「村方古物改口上書」の表紙に、「比企郡広野村 四給村中」と書いてある。四給村というのはどんな意味か。これは広野村が四人の領主に分割支配されているということである。
 一ヶ村が四人もの領主に分割されていて、村そのもののまとまりは一体どんなことになっていたのか。これを考えてみよう。
 幕府の旗下や大名の家臣が、主君から知行地を貰うこと、言葉をかえていえば、知行を地方(じかた)で給与されることを、地方知行制といった。「知行を地方で給与されるということは二つの内容をもっている。一つは、給人の知行地がどの村のどの土地であるかが指定されることであり、二つは、その村のどの百姓がその給人の百姓であるかが指定されることである。」と学者は説明している。そうにはちがいないが、私たちの村々の場合はそう単純には行かなかったようである。

第十表|スキャン画像
第十表(村々地頭姓名石高下調帳による)

 それはともかく、次の第十表によれば、村を分割して、二人以上の知行地となっていたのは大蔵、将軍沢、広野、越畑、吉田、古里の六ヶ村である。分割地行の村を相給の村といい、地頭の数に応じて、広野は四給の村、古里は八給の村といった。それではこれらの相給の村で、給人(知行を給与された旗本)に対して、どんな方法で給与すべき土地の指定と、百姓の指定が行なわれたのだろうか。
 先ず土地の指定から考えよう。広野を例にすれば、この村の田畑は、賀須川や石倉上下、寺前、大野田、金皿、天沼、猿田等の溜池の水を用水とするいくつかの小団地に分かれている。そこで島田氏に対して中郷団地を中心とした地区を定め、その石高を算出して、高109石を給与する。これで土地の指定は出来た。百姓の指定はどうするか、一つの団地内の田畑を耕作をしている百姓は、大体はその周辺に住んで集団をなしている。とくに耕作用水の利用については、用水組合など作って団結している場合が多い。田畑と百姓は密着しているのであるから、一定の区域を指定すれば、百姓は否応なしにこれについている。自動的に所属の百姓がきまって来る。これで百姓が指定されたとも考えられる。一ヶ村一給地の場合はこの通りに村を給与すればその村の百姓がのこらずこれについていくのであるから問題はない。然し一ヶ村をいくつかの知行地に分割する場合はそう簡単にはいかない。いわゆる出作入作である。これは、他村へ出て耕作したり、他村から入って耕作したりする場合、つまり、主として村を基準にしていう言葉であるが、相給の場合、各々の知行地の間にこの出入作の関係が必ず出てくるからである。狭い耕地が散在しているような村の中では一耕地一集団というわけには行かない。百姓の耕作地は、近隣の団地にわたって可成りに入り組んでいたと考えられる。この場合知行の地域を定めてもそれに応じて自動的に百姓が定るとは限らない。甲団地と乙団地とにそれぞれ半分宛田畑をもつ百姓はどちらに属するか。
 広野村のある地区を指定して、これは島田領だときめ、この地域内の住民は全部島田氏に属するものとした場合、極端な例を考えれば、住居はこの島田領にあるが、耕地の大部分は他領にもっているとか、その反対に耕地は島田領のものをつくっているが、住居は他領にあるという場合もある。然しそれには構わず、とも角島田領、島田氏の百姓ときめてしまうと、このためにどうしても支配者の方では行政の面に、百姓の側では、日常の生活の上に、様々の不都合が出てくると思う。だから地域を先に定めて、それに応じて百姓もきまるという方法には無理がある。ではその逆はどうか。百姓をきめてかかったらどうか。一定地域に集団する百姓の部落いくつかを選び、百姓の持高を集計すると109石になる。この百姓を指定して広野村内に109石給すという辞令を発する。これで百姓の方はピタリときまる。ところがこれも前述の出入作の関係から地域を確定することは出来ない。島田と木下の間に境界線を引くというような地所の指定は出来ないのである。では一体どのようにして土地と百姓を指定したのであろうか。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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