ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第1節:小農の自立と共同体制

小農の自立と共同体制

 杉山村の忠左衛門は、慶長二年(1597)の検地によって、1町5反4畝の「名請百姓」になり、7石846の「高持百姓」になった。これはこういう訳からである。忠左衛門は自分の土地も自分の屋敷もないが、田畑だけは次のように耕作していた。

帯刀分   下田1反5畝23歩、下畑  7畝 2歩
大祥之助分 下田6反7畝 3歩、下畑6反4畝21歩
 計    下田8反2畝26歩、下畑7反1畝23歩
田畑合計  1町5反4畝19歩

 この耕作事実がそのまま、検地帳に書きあげられ、忠左衛門の名は帳簿に登録され、帳付百姓、又、名請百姓となったのである。それと共に忠左衛門には当然年貢直納の責任が負わされた。年貢高は田畑の石高によってきまる。
 杉山の「石盛」は不明であるが、今仮に、10、8、6、8、6、4とすれば、田の方は6斗×8.29=49斗74、畑は4斗×7.18=28斗72となり合計7石946の石高となる。忠左衛門は7石846の「高持百姓」となったのである。
 かくして杉山村の検地帳には27人の耕作者が登録された。これを小農自立政策の出発と考えることが出来る。小農自立政策の体制は一応整ったわけである。それならこの体制下の実情はどうであったか。領主の意図のように小農は独立をとげて、立派に年貢負担の責に応(こた)え得たかどうか。  「帳付百姓」となった小農の個々を検討してみよう。
 助三郎の型は、自分の土地をもっていない。他人の土地を耕作している。屋敷もない、というものであった。耕作地は
 助三郎 23畝05  藤左衛門 46畝00  九左衛門 28畝09  喜左衛門 24畝09  仁左衛門 14畝00  弥五郎 12畝01  源左衛門 24畝18  与次郎 2畝02  六兵衛 2畝28
となっていて、九左衛以外はいづれも2反5畝未満の零細農である。(この型の中に前記忠左衛門の154畝19がある。これは例外と見なければならない)生産力の劣悪な下田や下畑を二反五畝程度作っていても専業農家としての自立は困難である。屋敷がないということは、住家もなく農舎も農具も持たなかったのであろうと思われる。これらの人達は主人の屋敷の片隅に同居して、主人から指定された田畑を耕作して来た。耕作に必要な耕馬や鋤や鍬、穀物調製用の農具はみな主人のものを使わせて貰ったにちがいない。そしてその田畑からの収穫物で生活を維持した。然しただというわけにはいかない。これに対する代償を払わなければならない。その代償は主人に対する奉仕である。労働力の提供であったと思う。主人の主作地となっている田畑を耕作することが彼等の主な仕事であり、それに対する恩恵として若干の田畑をあづけられ、これを耕作していたのではないだろうか。これが、「有力な百姓」と、無屋敷小百姓の基本的な関係だと思う。尚与えられた田畑からの生産物の若干を主人に納入するという型もあったかもしれない。いづれにせよ、主人との完全な依存(いぞん)関係にあったわけである。このような人達は検地帳に登録され耕作地の指定をうけ、持高を決定されて、さて年貢を納めろといわれても、すぐにこれに応ずることは不可能だったと思う。この人たちの生活と生産の大部分を支えていた主人と手を切っても、それだけで独立は実現出来ない。主人の経営の中に組み入れられその組織の一部として生きて来たのであるから、主人と手を切ることはむしろこの人たちの生活をおびやかすもので、到底独立して年貢を負担するというような能力は望めない。
 然しそれにもかかわらず、寛文(1661-1672)延宝(1673-1681)の頃になると一応本百姓自立の形態が整って来た。これは一体どのような事情によるものであろうか。私たちはこれを村の共同体制の結果だと見る。本家、分家、主人、下人等の共力依存関係を肩代りしたものが、村の共同体であった。この組織の中で行われる相依相助の生活が小農の自立を支えていったものと考えるのである。
 それで私たちは、これからこの共同体制のはたらきをいくつかの事例によって見ていくことにする。名づけて村の生活とした。
 先ずこの共同体制の周辺の事実として、領主と村との関係を探ってみよう。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
このページの先頭へ ▲