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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

二、村の生活(その一)

第2節:領主と村

川島地図

 嵐山町大字川島は、広野村の飛地であり、東西五町二十八間、南北五町五十間のひろがりをもつ地区であることが「郡村誌」に記してある。権田稔氏所蔵、元禄十二年(1699)当時の川島の地図(写)を見ると、地種ごとに色分けして、水田は水色、畑は白、山林は茶、道路は朱と区別を明らかにしている。そして屋敷の分は、屋敷の区画毎に更に三種の色で区別してある。これを西の方から順次拾って行けば

 黄1、赤1、青1、黄1、赤2、青1、黄2、黄1、黄1、赤1、赤1、赤2、赤1、青1、赤1、黄1、赤1、青1、黄1、青1、赤1、黄1、赤1、赤1、赤1、黄1、赤1、赤1

となる。黄色の屋敷が一つあり、その隣に赤の屋敷が一つ、次が青で一つ、再び黄色があり、次に赤の屋敷が二つ続いているという風にあらわしてある。一つの屋敷の中に一軒乃至二軒の家屋が描かれてある。これはどの家が何という領主に属しているかを示したものである。地図の説明に

黄色  出羽様御領地
青色  藤十郎様御領地
赤色  太郎左衛門様御領地

と註記してある。藤十郎は島田藤十郎、太郎左衛門は小林太郎左衛門であることは、「口上書」から明らかである。出羽は黒田氏であると思われる。とに角小林に属する百姓が十五、島田が五、出羽が十である。本村の広野村と同様に三人の旗本に分割給与されたものである。そこでこの百姓の分け方であるが、それがどんな基準によったものであるか全く分らない。島田、小林、出羽と三つに分けられた百姓がそれぞれ一団を形成していれば、大体地域を基準にしたのだろうと想像出来るが、隣から隣とかわっているのであるから地域は全く関係ない。本家と分家など、一族一家の関係はどうかと思い、明治末年に於ける屋敷の配置を見ると、西の方から

 1権田縫太郎  2田幡馬太郎  3田幡宇太郎  4権田文五郎  5権田源平  6権田定吉  7権田近之助  8権田長吉  9権田格吉  10権田陸平  11森田角吉  12小川伊三郎  13権田辰次郎  14権田金右衛門 15遠藤初五郎  16権田浅吉  17初雁類之助  18島崎浜次郎  19島崎五郎助  20島崎弥助  21島崎伝吉  22森田浦三  23森田喜平  24権田福次郎  25権田源三郎  26権田岩次郎  27権田兼吉

となっている。同姓が必ずしも同族とは考えられないが、姓の上からは、権田、田幡、森田、小川、遠藤、初雁、島崎の七つに分けられる。この七つの姓に、元禄十二年(1699)の屋敷配置、黄、赤、青をその順に重ねて見ても、全然重らないのである。勿論元禄と、明治では二〇〇年余の年月の経過があるから、その間の廃絶家、新宅、分家、転出入等の変化を無視して、これを重ね合わせて見るということは、技術的にも不可能のことには相違ないが、とに角、色分けと同族とは無関係のようである。同族団体を基準にして所領の配分をしたのではないと思われる。
 それでは田畑、山林の土地はどう分けられてあるかというに、これには全く色分けがない。島田の領分、小林の領分、出羽の領分という区分は全く示されていない。田、畑、山林の地種が別々の色で示されているだけである。これはどう分割されていたのか、それとも分割されなかったのか、図面の上からは全く明らかに出来ない。ところでこの疑問を解決する一つの示唆が地図の上に現われている。水田集団は二つあるがその一つに「田御三方入相」と説明がついている。御三方入相とは、三人の領主が共同で、この水田の地域を持っているのだということである。その持分の区画を明確にしないで三者共同で支配している水田であるという意味である。これを手がかりにして考えると、その他の田、畑、山林については「入相」という説明はついていないが、これも矢張り同じように入相の姿で支配されていたものにちがいないと思う。屋敷の配置が、西から東に亘って、黄、赤、青と殆んと万遍(まんべん)なく連なっているということは、黄(出羽)の百姓は甲地区の耕地に結びつけられ、赤(島田)の百姓は乙の地区が駄目だという区別なく、川島地内どこへでも行って田畑を耕すことが出来たからであると思う。百姓は区別されても、その百姓と一緒に土地を三者に区分することは出来ない。だから土地の方は、自(おのづ)から「入相」ということになると思う。それで川島の田、畑はいずれも「入相」の形で支配されていたのにちがいないと考えられる。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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