第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
一、村の成立
第4節:杉山村の成立過程
元文五年
江戸時代に於ける村落共同体成立の過程は小農自立の進展に対応するものであるという立場から、杉山村外三ヶ村の検地帳を見ると先に述べたような結果になる。而してこれは小農自立の度合いを村全体の傾向から見たのであるが、これを個々の百姓に焦点をあててみればどうなっているか。私たちは次にこの仕事にとりかかることにしよう。
さて慶長二年(1579)の検地で新発足をした杉山村の百姓たちは、その後どのような経過を辿ったか、それは資料を欠いている。然し慶長から百四十三年後の元文五年(1740)になると、杉山村は立派に近世農村の形に成立している。これを示す資料は「申年田畑御勘定帳 山御年貢共」(初雁喜一氏蔵)という帳簿である。百姓個人別の年貢割付帳である。
これによると、
田の分では壱石六升七合六勺 勘太郎
三表弐升八勺
壱石四升弐合 喜八郎
弐表四斗三合六勺畑の分は
高五百八拾五文 勘太郎
五拾文 新畑
〆六百四拾八文
高百廿文 山 同人
高五百八拾六文 喜八郎
五拾八文 新畑
〆 六百四拾九文
高 百文 山 同人という形式で書いてある。田畑山共にその年貢高を示すものである。このようにして割当をされた百姓は総数73名になっている。そして、その中で田高だけをもつものが7名、畑高だけのものが13名ある。慶長から元文までの間に26名の帳付百姓が73名となり、その数も増加し、当初の分付百姓もそれぞれ独立して年貢負担者となっている。
年貢高を田についてだけみると1石以上のもの 10名(内1名 2石以上)
5斗から1石までのもの 17名
1斗以上5斗未満のもの 26名
1斗未満のもの 7名
計 60名
(前述のように畑だけのものが13名いる)となっており、慶長年代の飛び抜けて大きい百姓は姿を消しその痕跡(こんせき)と思われるものはあるが中位の百姓が大部分をしめている。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
おそらく越畑、遠山、吉田という経路をとおってこの形になったのであらう。