第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
一、村の成立
第3節:小農自立の展開
村落共同体の成立
以上四つの検地帳(名寄)を比べて見ると杉山村の検地帳に登録された百姓の肩書には「外記分三左衛門作」という風に書いてある。これは外記に隷属(れいぞく)している三左衛門を独立の百姓としてみとめ、年貢負担者の責任をもたせようというのである。三左衛門は、自分の土地ではなく、外記の分をつくっているのであるから、肩書に「何々分」がついている。三左衛門は「分付百姓」である。これは小農自立政策の第一歩である。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
領主は地主が分付百姓から、その生産物をとることを禁止した。これまでは、有力な百姓はその土地を「下作」させ、その収穫物の一部を納めさせた。これを「作合」をとるという。これは小農の独立を阻害(そがい)するものである。領主は地主とこれに隷属する耕作者の結びを断ち切るために、この「下作」と「作合」をとることを禁止した。勿論直接に耕作者から年貢をとるためである。このようにして小農自主政策は推進されていったのである。
「分付」がなくなり、それぞれ自分の土地を持つようになれば、その土地はなるべく均分化され、大小百姓の格差が僅少であることが望ましい。甚だしい貧富の差は独立農家の実に添わない。従って単に田畑の面積が同じように分けられているというだけでなく、その内容も、上中下の田畑が偏頗なく分けられていることが必要である。小農自立政策の方向はこのように進められたと思う。とすれば右にあげた四ヶ村の検地帳は、杉山村を第一段階とし、次が越畑村、これは「分付」がとれた状態、進んで遠山村と吉田村となり、これは概ね、小農自立政策の実現した形と考えてよいだろう。年代も、慶長二年(1579)、慶安三年(1650)、寛文八年(1668)、宝永二年(1705)と順次下って来ている。
ここで一応、右【上】の結果をしめくくりしておこう。言いたいのは村落共同体の性格を内容とする江戸時代の村は、吉田村名寄帳の形で出来上ったのではないだろうかということである。杉山村を出発点とし、越畑村、遠山村の形を経て本百姓の独立はかたまって来た。そして吉田村でこれが出来上った。村の共同体はこの独立農家を成員として組織されたものである。個々の百姓の姿が他と区別されて明らかになって独立し、その独立した個々の百姓が組織的に結びついて、ここにはじめて村落共同体が出来たというべきであろうと考えるからである。それで吉田村の段階で、共同体としての村が成立したと考えるわけである。本家分家が分れず、主人と下人という隷属関係が強い段階ではまだ共同体としての性格は熟していないと思うのである。尚、個々の百姓を共同体として結びつけた要因はあとで考える。