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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

一、村の成立

第4節:杉山村の成立過程

天明三年

 もう一つの例をみよう。その後四十三年を経て、天明三年(1783)の杉山村「田畑惣高帳」(初雁喜一氏蔵)には次のように書かれている。

              伊左衛門
四反九畝廿六歩
 内七畝拾三歩   申年 喜四郎江入
残而四反弐畝拾三歩
 内壱畝廿歩       恒次郎江入
 外ニ壱反弐畝拾歩 入
〆五反三畝三歩
 内 拾弐歩   定八江引
残而五反弐畝廿壱歩

 これに登録された百姓は六二名である。

第八表 田畑惣高帳|スキャン画像
第八表 田畑惣高帳

 この帳簿には、最後に「右之通相改候処相違無御座候、天明三年卯四月 日」とあるから、内容は、天明三年(1783)当時のものに相違ない。ただところどころに少し、文化(1804〜1817)、文政(1818〜1829)年度の移動が混入している。従って書写の年代は、文政年度以降ということになるが、天明三年以後のものについてはとくに、年号が冠してあり、それ以外は単に、干支だけでその年度をあらわしている。それで干支だけのものは天明三年までのもので、申、酉、戌、亥というような年は天明三年卯の年の前、安永元年(1772)辰の年以後の十一年間のそれぞれの年をあらわしていると考えられるのである。
 表を見て貰いたい。名前の下の田畑面積は、夫々の名請地である。最下段の耕作面積は、天明三年現在の耕作地である。その上の移動欄は、多分安永元年から天明三年までの間に動いたと思われる耕作地の出入である。例によって反別階層別に百姓数をしらべると

15反−20反  1
10反− 5反  6
 5反−10反 21
 1反− 5反 32
 1反未満    4
   計    64

となっており、1反から1町に至る層が53名あり、これが元文五年(1740)の1斗から1石までの43名に対応している。経営規模は平均化したといってよい。
 さいわい、ここに同じ天明三年(1783)の「切支丹宗門人別御法度証文帳」(初雁喜一氏蔵)がある。この宗門改帳には、その末尾に

一、本百姓六拾弐軒之内 僧弐人、山伏弐人、菴主壱人、男百三十四人、女百拾四人
一、水呑百姓四軒之内 男八人、女六人

とあり、当然のことであるが、名請百姓即ち本百姓の数は、「田畑惣高帳」と完全に一致している。この宗門帳は、矢張り伊左衛門から始って

一、伊左衛門
    〃  女房
    〃  男子長蔵
    〃  嫁 志う
  〆四人

という形式で書いてある。そこで伊左衛門以下百姓のそれぞれの家族構成を書き出しておく。これも本人、女房、伜、娘という型が、基本的のものになっており、いわゆる単婚小家族の形態となっている。この面でも、百姓相互の間に甚しい差異はなくなっているのである。
 慶長二年(1597)の耕地面積は

田  17町08畝18歩
畑  14町26畝23歩
計  31町35畝11歩

であり、天明三年(1783)の「惣高帳」では、田畑合計370反3畝20歩となっている。新田、新畑の開発によって、6町歩余りの耕地が増しているが、これを含めて杉山村では、約2.5倍に増加した百姓数に応じて、田畑が配分されたのである。これは慶長以後の検地によったものであろう。
 尚、明治末年に於ける杉山村の家数は62戸となっている。これは天明三年(1783)の本百姓の数と一致している。62戸の内容には異動があったにちがいないが、村の家数はこの62戸の線を少し宛上下しながら、幕末から明治へと推移したものと思われる。
 杉山村の小農自立の状況はこんな風であった。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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