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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

一、村の成立

第3節:小農自立の展開

遠山村の検地帳

 遠山村寛文八年(1668)の検地帳によって「名寄」をつくってみると別表のようになる。名請百姓は二三名、寺が一、合計は田面積一町九反四畝二四歩、畑面積一二町三畝二二歩と書いてある。一戸平均五反歩の耕作に当る。この五反歩を軸として、四反から六反のものが九名で全員の三分の一をしめ、六反以上のものは五名、四反に足りないものが一〇名、中、二反歩以下は二名である。大百姓では一町以上のものが僅か一名である。このように遠山村では、寛文の検地当時大体力の平均した本百姓が出来上っていたことが知られる。そしてこれは又その後も長く続いて、明治に至った。明治九年の「戸籍取調帳」によると
 戸数二十三軒  但家持 社一、寺一  総計廿五軒となっている。

第五表 遠山村名寄帳|スキャン画像
第五表 遠山村名寄帳(寛文八年の検地帳による)

 今の遠山村の姿は寛文の頃(1661-1672)に出来ていたということになる。大体力の平均した百姓によって村が組織されており、その百姓はいづれも屋敷をもって独立していた。これが杉山の検地帳と大いにちがっている点である。杉山村の検地帳で意図された本百姓が出来上ったかたちである。八ッの型の百姓がみな独立した形になっている。そこでこの形はいつ成立したのか、その前はどんな姿であったのかということが問題である。さて「名寄」によれば一人抜群の百姓がいる。それは孫左衛門であるがこれがひとり一町歩を超えている。又、田畑の等級制面積を見ても、

 上田  一七畝二七歩
 中田   六畝一二
 下田   五畝二六
 下々田  二畝〇九
 上畑  三三畝一二
 中畑  一六畝二六
 下畑   五畝二四
 下々畑  一畝〇四
 切畑一  四畝二二

 となっており、各等級の田畑をまんべんなく持っている。これを遠山村全体の等級別面積と一戸当平均反別に比較して表にすると次の通りである。

      孫左衛門   一戸平均
 上田   八一畝〇二 (一七畝二七)  三畝一〇
 中田   六一畝〇六 ( 六畝一二)  二畝一六
 下田   三三畝〇五 ( 五畝二六)  一畝一四
 下々田  一九畝〇九 ( 二畝〇九)  〇畝二四
 上畑  四八七畝一五 (三三畝一二) 二〇畝〇九
 中畑  二四六畝〇九 (一六畝二六) 一〇畝〇八
 下畑   八六畝一五 ( 五畝二四)  三畝一八
 下々畑  三三畝一〇 ( 一畝〇四)  一畝一二
 切畑  一五五畝一二 (一四畝二二)  六畝一四
 屋敷   四一畝一五 ( 三畝一〇)  一畝二二

 全種目について、孫左衛門は平均反別をこえている。しかも上級の田畑の率が大きい。これは孫左衛門が、有力な百姓であることをものがたっている。大体においていつの世でも、よい田畑は、有力な大百姓が持っているというのが通例である。
 このことから、孫左衛門はもと杉山村の帯刀型の百姓であったのではないかと思われる。してみると、遠山村にも慶長年間の杉山村と同じ型の百姓が存在したのだろうというこになる。そてしてそれがこの検地帳の形に定着し来たということになろう。寛文八年(1668)は慶長二年(1597)より約七十年後である。農家独立の政策が進んだ姿である。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)84頁〜88頁
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