第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
一、村の成立
第3節:小農自立の展開
杉山村の検地帳
検地による「村高」の算出によって、村の境域や、田畑の面積や、土地の生産力や、戸数や人口などが決定され、村の姿が明らかとなって、制度の上の村々が誕生した。甲と乙、それぞれの村の区別も明瞭になった。形の上の村は成立したのである。これについては異論はないと思う。問題はその村の内容である。太閣検地によって小農自立政策がはじまりこれに伴って本百姓が独立したが、これが集って村落共同体を作りあげていった。これが江戸時代の村で、この村の性格が現代にもある程度残存しているのである。このような共同体制の村がどのようにして固って来たかそれを探ぐるのが、当面の仕事であった。そして村の事例に基いて、これを果たそうとしてここまで来たのである。その間に検地の方法などの調査で、大分手間どった。そこで本筋に戻ることにしよう。
慶長二年(1597)二月十日御繩打「武州比企郡杉山村御水帳」によって名寄帳を作って見ると次のようになる。
第三表 杉山村名寄帳(慶長二年の検地帳による)
合計欄は所持地面積、括弧内は耕作面積第三表によって田畑の所有と耕作の関係をみると五種の百姓のいたことがわかる。
一、所有地の一部を主作し、他を他人に耕作させるもの。帯刀、大祥之助、外記、主計、大蔵院、太郎次、藤四郎の七名。
二、主作地だけを所有するもの。与三郎、薬師堂、小五郎の三名。
三、主作地をもち、所有地の一部を他に耕作させ、又、他人の所有地を耕作しているもの。重左衛門一名。
四、主作地をもちその外に他人の所有地を耕作しているもの。新四郎、弥七の二名。
五、主作地を持たず、他人の所有地だけを耕作しているもの。助三郎、忠左衛門、藤左衛門、九右衛門、甚左衛門、仁左衛門、弥五郎、源左衛門、与次郎、六左衛門、三左衛門、惣重郎、惣左衛門の十三名。
又、土地所有者について、その面積を調べてみると、全耕地「田畑合三拾壱町三反五畝拾壱歩」の中(検地帳の合計と前表の集計とが一致しないのは、虫喰いの部分の読みちがいか、検地帳の計算の誤りかによるものである)
帯刀 四町八四 一五・〇% 太郎次 一町一九 三・八%
外記 七町七八 二五・〇% 藤四郎 一町八九 六・〇%
主計 二町九九 九・五% 与三郎 一町〇〇 三・二%
大祥之助 一町六五 五・三% 小五郎 一町九〇 六・二%
重左衛門 三町〇九 九・八% 弥七 二町四九 八・〇%
大蔵院 一町〇一 三・二%計九五パーセントで(一〇〇%にならないのは切捨てのため)一町以上の所有者十一名で全耕地を占めている。ことに、外記、帯刀、重左衛門、主計が大地主である。
これに対して全く所有地のないものが十三名いた。慶長年間の杉山村は以上のような階層の百姓たちで村がかたちつくられていた。それではこれらの人々は相互にどのように結びあって村を組織していたのだろうか。
同じ検地帳によって屋敷の調査をみると▽外記分 二畝〇〇歩 三左衛門居
二畝一八 六左衛門居
二畝二八 新四郎居
〇畝二四 市左衛門居
一〇畝〇〇 外記居
▽帯刀分 六畝二八 帯刀居
四畝一二 重左衛門居▽小五郎分 一畝〇六 小五郎居
▽大祥之助分 二畝一〇 大祥之助居
▽藤四郎分 三畝〇六 藤四郎居
三畝二二 惣左衛門居▽主計分 四畝一五 主計居
▽○弥七分 〇畝一五 ○弥七郎居
▽重左衛門分 一畝〇二 重左衛門居
四畝二九 惣十郎居▽太郎左衛門分 七畝〇六 太郎左衛門居
四畝二四 縫之助居▽与三郎分 八畝二四 与三郎居
▽弥七分 三畝二七 弥七居
(○印は不正確の人名)
となっている。これと前表の「名寄」と比べて見ると次の点に気がつく。
一、屋敷をもっているものは、すべて主作地を有するものであること(太郎左衛門は太郎次であるかもしれない。虫喰いため読めない。)
二、それと逆に主作地のないものは屋敷がない。そしてこれには二種ある。
1全然屋敷調査に名のあらわれないもの。
2他人の屋敷の中に住んでいるもの。この場合、屋敷の所有者は必ずその所持の田畑を、このものに耕作させている。
例えば、外記分の屋敷に住居する三左衛門、新四郎、帯刀分の重左衛門、藤四郎分の惣左衛門、重左衛門分の惣十郎等、これである。重左衛門の居住が二ヶ所あるが、その意味は不明である。
以上の所有地、耕作地、屋敷の関係を個人別に表にしてみると次のようになる。前の五つの型と屋敷の有無を組合わせると、表の中に八つの型があらわれている。代表者を一人ずつあげてこれを区別すると次のようになる。
一、帯刀
土地を持っていて、自分でも耕作し、他人にもつくらせている。自分の屋敷に住み、他人にも提供している。二、主計
土地を持っていて、自分でも耕作し、他人にもつくらせている。自分の屋敷に住んでいる。三、与三郎
土地を持っていて、自分で耕作している。自分の屋敷に住んでいる。四、弥七
土地をもっていて、自分で耕作し、他人の土地もつくっている。自分の屋敷に住む。五、重左衛門
土地を持っていて、自分でも耕作し、他人にもつくらせ、又他人の土地も耕作している。自分の屋敷に住み、他人にも提供し、又、他人の屋敷をつかっている。六、新四郎
土地を持っていて、自分で耕作している。他人の屋敷にすんでいる。七、六左衛門
土地をもっていない。他人の土地を耕作している。他人の屋敷に住んでいる。八、助三郎
土地を持っていない。他人の土地を耕作している。屋敷もない。全部の百姓がこの型のどれかに属している。(大蔵院と薬師堂は社寺であるから例外)
慶長二年(1597)当時の杉山村の土地の所有の状態や、耕作の実態を、検地の趣旨に則って、耕作者の層で横にズバリと切ってその断面にあらわれたものをみると、この八っの型が出ているのである。もともと荘園体制の下では農民といってもその性格がきわて複雑であって、農民の中には土地の所有者もあれば経営者もある。また現実に耕作している者もあり、その中でも人に使われているものもあるし、一応独立している者もある。土豪と呼ばれるようなものから、その日暮しの人たちもいるわけである。しかしそれらの様々のかたちに一切おかまいなく、耕作者という断面をつくってみると、八つの型になるのである。
すでに述べてきたように検地によって、田畑屋敷一筆毎の「石高」がきまるが、この「石高」に基いて、その土地からの年貢を負担すべき農民がきめられなければ意味がないわけである。この年貢を負担する人を、その土地の所有者とせず、耕作者と決定することが、太閤検地の趣旨であった。固定資産税は地主が出し、所得税(住民税)は耕作者が負担する。これが今の税法であるが、太閤検地では所有の如何にかかわらず、年貢は耕作者一本にしぼったのである。そこで田畑屋敷の一筆毎に必ず耕作者と居住者の名前を記載した。耕作者を検地帳に登録したのである。この登録人を「帳付百姓」、「名請百姓」という。これが本百姓である。さて断面図に現れた耕作者のもとの姿を考えてみよう。
一、帯刀の型、鎌倉時代以後「名田」がいちじるしく発達し、この「名田」には「名主」という、有力な開発地主がいた。この「名田」の周囲にはまたいくつかの聚落が開かれた。この聚落には「名主」といわれるような大地主はいなかった。又、ごく古い聚落である郷や保の外側にも、沢山の聚落がふえていた。これらの聚落にも強力な権力者はいなかった。名や、郷、保などの独立農民や、二、三男などが出作りをしたり、開墾したりして出来た聚落だからである。これらの聚落を「村」と呼んでいた。この「村」はいくつかの異姓の集団となっていた。 杉山村もこのような性格の村であった。帯刀の型の百姓が数人あって、土豪と称するような強力な勢力者はいない。帯刀型の小地主が集団となって村がつくられている。
帯刀型のもとの姿は出作りや開墾などによってこの村を開発し、ここに住居を占めたものであろう。はじめから住んでいるので、勿論自分の屋敷をもっている。二、主計の型は帯刀の型の小規模のものである。
三、与三郎の型はこれを更に小さくしたものである。独立した百姓であるから古くから住んでいたものと思われる。
四、弥七の型、与三郎の型に類すると思われるが、あるいは二、三男が分家して、独立したものとも考えられる。
五、重左衛門の型は一つしかなく、帯刀の型に属すると考えてよいだろう。以上の五つは今でいえば、自作、自小作農にあたるもので、とも角独立の百姓とみてよい。
六、新四郎の型、これは自作地をもっているが、屋敷をもたないという点で、今の自作農とはちがっている。これは帯刀の型の農民の二、三男か、下人などが分家して、土地は与えられたがまだ独立し得ないで、本家の屋敷に住み、自分の土地は耕作しているが、本家との共力関係にあるものである。
七、六左衛門の型は、帯刀の型の下人などが主人の屋敷を借りて住み、とも角生活を別にしている場合である。主人の土地を少し貸して貰って家族の生活の資にあて、その代償に労力を提供して主人の土地を耕作するというような型のものであろう。
八、助三郎の型、屋敷がないということは家長や主家の別棟とか、小屋とかに住んでいたのだということを思わせる。然し単なる家族下人とは異って、自分の責任で、主人の土地の一部を耕作する立場を認められてはいたのであろう。隷属性(れいぞくせい)が一番強いものである。収穫物の一部を貰って残余を家長や主家に納めたり、労働力を提供したりしていたものであろう。
杉山村の検地帳には右【上】のような八ッの型の百姓がその断面図に認められる。八ッの型の百姓があらわれたのは小農自立政策の手はじめである。これはどのようしにて展開していったか遠山村の検地帳を調べてみよう。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)70頁〜84頁