第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
一、村の成立
第3節:小農自立の展開
越畑村の名寄帳
越畑村は慶安三年(1650)に領主高木氏が検地を実施したと「風土記稿」に記してある。元禄十一年(1698)八月記録の「武州越畑村田方惣百姓名寄本帳、同畑方惣百姓名寄本帳」(船戸治夫氏蔵)によれば、帳簿に登録された百姓、97名の中、その名請面積
3町歩以上のもの 1名
2町歩〜3町 1名
1町5反〜2町 3名
1町〜1町5反 4名
5反歩〜1町 17名
1反歩〜5反 50名
1畝〜1反 20名
1畝以下 1名という数字があらわれている。この村では5反歩以下の耕作者が71名をしめ、この点で遠山村とは稍々異った姿をあらわしている。遠山村では中堅百姓が主軸をしめ、耕作地は大体平均的にわけられていた。越畑村は2町4反歩、3町1反5畝歩という大百姓がおり、その反面5反歩以下の小百姓の数が圧倒的に多い。しかも全体で屋敷をもつ者が29名にすぎない。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
遠山村では23名中、無屋敷僅か4名、大部分は屋敷持ちであった。これ等の点から越畑村は、杉山村の検地帳によく似ている。高木氏が検地をしたのは慶安三年(1650)で、遠山村の寛文八年(1668)より十八年前に当る。越畑村の方が僅かであるがその時期が早い。
「風土記稿」に越畑村には「城山とよぶ塁蹟があって庄主水という人の居蹟だという伝えがある。但しこの人の年代も出身も明らかでない。杉山村にも、同じように庄主水の居住したという五百坪ばかりの塁蹟がある。又金子十郎家忠の居住だともいっている」と書いてある。越畑村は杉山村の地続きであるし、同じ庄主水の住んでいた土地だという伝えがあるとすれば、この二つの村は中世の頃、大体同じような姿を持っていたものと思われる。帯刀型が大百姓として残り、助三郎型が、屋敷のない小百姓として、圧倒的な数をしめたものであろう。参考のため「名寄帳」の集計を掲げておく、越畑村は、杉山村と遠山村との中間に位するものである。