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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

一、村の成立

第2節:検地

検地帳の記録

 検地は二つの要素から出来上がっている。一つは土地を丈量してその地積をきめることであり、他は一筆毎の土地の品位を測定してその生産力を確定することである。後者を「石盛」という。地積と石盛とのかけ合はせが「高」であり、これを村単位で集計したものが「村高」である。村高は「丈量」と「石盛」の二つの柱に支えられている。そこで、これまでは主に土地丈量の面だけを見て来たので、次には土地の位付や、石盛について研究を進めなければならないことになる。然しその前に右【上】のような検地が行なわれた結果、私たちの村々にはどのような数字があらわれたか、実例を見ていこう。これは石盛のことを研究する準備にもなると思う。幸に旧菅谷村地域の村々には検地の記録がのこっている。検地の年月、検地の役人、案内の村役人、田畝屋敷等の等級別合計面積を書いたものである。これは前にもいったように「沿革」に記載されているのである。これを次に全部あげることにする。

▽菅谷村
(表書)     検地人 山本嘉兵衛外二人
 田畑屋敷裏山新山御検地野帳
  寛文五年巳ノ五月 日 名主五郎左衛門
(合計)
  上田   壱反五畝廿五歩
  中田   四反七畝拾壱歩
  下田   弐町九反八畝廿壱歩
  上畑   弐町六反九畝壱歩
  中畑   七町三反八畝弐歩
  下畑   四町六反弐畝廿八歩
  下々畑  三拾九町七畝廿壱歩
  屋敷   壱町五反八畝三歩
  裏山   拾四町壱反六畝拾八歩
  新山   三反拾五歩
 尚次の註記がある。
 「御検地帳表書ニハ寛文五年(1665)トアルモ、先年ノ古水帳損シ見エ兼ルニ付更ニ延宝七年(1679)未九月改、書替ルト帳末ニ載セアリ」

▽志賀村
(表書)    検地役人 山本嘉兵衛他二名
 田方御検地帳
  寛文五年巳ノ八月八日
(合計)
  上田   拾四町三反壱畝廿六歩
  中田   五町八反弐畝廿六歩
  下田   拾六町八反五畝拾三歩
  上畑   九町三反弐畝拾六歩
  中畑   拾町壱反六畝壱歩
  下畑   拾壱町九反四畝拾三歩
  下々畑  三拾弐町壱反九畝六歩
  屋敷   壱町弐反五畝拾六歩
  藪山   三町壱反九畝廿弐歩
  萱場   壱町七反五畝拾歩
  新田山  壱町九反五畝拾九歩
  船木山 拾六町六反六畝廿四歩
〔註〕御検地帳表書ニハ寛文五年(1665)トアルモ先年ノ古水帳損シ見兼ルニ付更ニ延宝七年(1679)巳九月改書替ルト帳末ニ載セリ亦曰ク新田山船木山ノ検地帳ハ何年ノ頃亡失セシカ不明唯々反別帳而己アリ

▽平沢村
(表書)    検地役人 坪井次右衛門
 武州比企郡平沢村御検地帳ノ写
  寛文八年申ノ八月 日
(合計)
  上田   三町壱反八畝廿四歩
  中田   三町四反八畝歩
  下田   六町七畝廿九歩
  下々田  八反八畝歩
  上畑   三町七反八畝五歩
  中畑   四町八反四畝拾四歩
  下畑   八町壱反九畝廿歩
  下々畑  五町三反三畝廿八歩
  切畑   七反五畝廿九歩
  屋敷   八反八畝拾三歩
〔註〕該村ノ義ハ明治十二年(1879)二月一日当時ノ戸長役場焼失ニ付本御検地帳其ノ他書類等焼亡セシニヨリ渾テ写ヲ以テ記載セリ

▽遠山村
(表書)    検地役人 坪井次右衛門
 武州比企郡遠山村御繩打水帳 全
  寛文八年申ノ八月十九日
(合計)
  上田   八反壱畝弐歩
  中田   六反壱畝六歩
  下田   三反三畝五歩
  下々田  壱反九畝九歩
  上畑   四町八反七畝十四歩
  中畑   弐町四反六畝九歩
  下畑   八反六畝拾五歩
  下々畑  三反三畝拾歩
  切畑   壱町五反五畝拾弐歩
  屋敷   四反壱畝拾四歩

▽千手堂村
(表書)    検地役人 坪井次右衛門
 田畑屋敷御検地帳
  寛文八年申ノ八月廿一日
    案内  太兵衛  仁兵衛  五郎兵衛
(合計)
  上田   弐町五反六畝廿六歩
  中田   壱町三反八畝廿四歩
  下田   壱町弐反弐畝六歩
  下々田  三反四畝拾九歩
  上畑   弐町八反七畝弐拾歩
  中畑   三町六反三歩
  下畑   四町四反八畝六歩
  下々畑  拾壱町弐反九畝拾壱歩
  屋敷   七反四畝歩
(表書)
 切添畑改検地帳
  延宝八年申ノ閏八月
        中川八郎左衛門代志村茂左衛門
(合計)
  中畑   八畝九歩
  下畑   九畝拾壱歩
  下々畑  弐反八畝拾壱歩
  屋敷   三畝六歩

▽鎌形村
(表書)    検地役人 曾根五郎左衛門外三人
 武州比企郡玉川領鎌形村御検地水帳
  寛文八年戊申八月十七日
    案内  弥右衛門  太郎兵衛  三郎左衛門  縫殿助
(合計)
  上田   壱町五反九畝廿三歩
  中田   五町九反六歩
  下田   六町六反弐畝八歩
  下々田  三町六反六畝弐歩
  上畑   弐町壱反三畝四歩
  中畑   拾弐町弐畝拾九歩
  下畑   四拾壱町六反四畝六歩
  下々畑  三拾五町九反五畝拾八歩
  切畑   弐町八反七畝歩
  屋敷   壱町壱反五畝一歩
(表書)  武蔵国比企郡玉川郷
       鎌形村入会秣場検地帳
  元文五年申十一月
        御代官 柴村藤右衛門
         手代 八木仙右衛門 木村儀助
(合計)
  秣場   弐拾弐町壱反壱畝拾弐歩

▽大蔵村
(表書)    検地役人 深谷喜右衛門
 武州比企郡玉川領大蔵村申御繩打水帳
  寛文八年
   案内   長左衛門 市郎左衛門 理兵衛 孫右衛門 伊兵衛 七郎左衛門 作左衛門 彦左衛門
(合計)
  上田   壱町弐反七畝九歩
  中田   壱町七反壱畝廿九歩
  下田   八反壱畝廿七歩
  下々田  壱反八畝壱歩
  上畑   六町七段六畝拾壱歩
  中畑   八町壱反七畝廿七歩
  下畑   九町五反四畝拾歩
  下々畑  六町五反七畝廿九歩
  屋敷   壱町七反五畝拾弐歩

▽根岸村
(表書)    検地役人 深谷喜右衛門
 武州比企郡玉川領根岸村御繩打水帳 全
  寛文八年戊申七月晦日
   案内   五郎左衛門  勘左衛門  与五兵衛  藤左衛門  杢左衛門
(合計)
  上田   三反九畝拾八歩
  中田   三反五畝廿歩
  下々田  八畝壱歩
  上畑   弐町弐反三畝弐歩
  中畑   壱町三反七畝廿八歩
  下畑   壱町五反四畝拾弐歩
  下々畑  九反九畝廿弐歩
  屋敷   弐反六畝壱歩

▽将軍沢村
(表書)    検地役人 深谷喜右衛門
 武州比企郡玉川領将軍沢村申御繩打水帳
  寛文八年戊申七月晦日
    案内  源左衛門  彦右衛門  吉兵衛
(合計)
  上田   壱町五反三畝七歩
  中田   壱町七反八畝廿八畝
  下田   三町壱反四畝廿七歩
  下々田  弐町五反六畝廿五歩
  上畑   弐町五反三畝廿七歩
  中畑   弐町弐反壱畝七歩
  下畑   六町五反八畝三歩
  下々畑  九町六反弐畝廿三歩
  屋敷   五反七畝八歩

 江戸時代の検地は慶長の石見検地(大久保石見守長安の検地)備前検地(伊奈備前守忠次の検地)の後、寛文(1661-1673)、延宝(1673-1681)の頃から天和(1681-1684)、貞享(1684-1688)に至る間に漸次諸国を検地し、元禄年中(1688-1704)になって、検地の基準となるべき検地条目が略々出来上った。これまでの検地の実情に基いて調査の要項を整理、制定したものであろう。これがもとになって、更に前述の享保十一年(1726)の新検地条目が出来たのである。そして享保以前の検地を古検、以後のものを新検ととなえ、又、元禄以前に検したものを古田畑といい、元禄享保間新開のものを古新田といって享保以後の新田と区別した。「沿革」に掲げられた寛文の検地は古検に属するものであり、従って、享保の検地条目に則って検地したものではないが、享保の条目は、元禄の条目を基礎にし若干の手直しを加えたものにすぎないと考えられるから、本村で行なわれた寛文の検地も享保の検地条目の方法で実施されたものと考えてよいだろう。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)58頁〜65頁
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