ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

一、村の成立

第2節:検地

検地条例

 検地は一定の基準に従って行なわなければ無意味であることはたびたびのべた。バラバラでは数量の間に何の結びつきも生じないからである。
 四年毎に行なわれる国勢調査が、十月一日午前零時を期し、全国一斉に同一調査要項に基いて実施されるのもそのためである。徳川幕府の領内で、太閤検地にも匹敵する大規模な検地が行なわれたのは寛文(1661-1672)、延宝(1673-1681)期である。これらの検地にあたってそれぞれ一定の基準が定められたことは推測に難くない。しかもそれは太閤検地を踏襲して整備したものである。これらのものが成文の例規となって残っているのは、享保十一年(1726)の検地条目である。この検地条目によって、右にのべた丈量の外、検地方法の全般を概観しておくことにしよう。

一、村境や田畑の境界を明瞭にしておくこと。
 検地の前に双方の名主組頭庄屋年寄など検地の案内に当る者が立合って、境目に標識の杭を立てておく。
一、間竿は六尺一分を一間とし、一丈二尺二分の二間竿で打つ、一反は三百坪とする。
一、繩は一間宛の管繩(くだなわ)六十間か三十間のものを使う。繩に伸縮が出るから、早朝と午前十時、午後二時に検査する。管のすきめがないようよくしめ、一間宛間数の札をつける。
一、間数の端尺は六寸、一尺二寸、二尺四寸、三尺、四尺二寸、四尺八寸、五尺四寸を基準として、これに足りない分は切捨てる。畝歩の算出は歩位に止める。
一、田畑一枚毎に間数を合帳につけ、読みあわせの上、畝歩を算出して二つの帳面に書き、案内のものに検討させて間違いがあるか否かをたしかめる。
一、田畑の字名を正確に書くこと。道路、用水、悪水堀等を脇書につける。
一、新田の場所に年貢用の蔵屋敷があったら検地高に入れること。大石、大木、塚などは検地から除いて脇書する。
一、寺社領の境内を調査し、明らかにしておく。
一、南東に高いがけがあるところ、街道筋で並木のある所は木蔭引をする。
一、畔際(あぜぎわ)は一尺宛引く。
 高畔は見計らって引く。小さい土手などは高さや幅を調べて脇書きする。
一、屋敷は四方一間通り除く。
一、用水があり田にすることの出来る畑で、開発願のあるものは田として検地する。
一、田畑の品位は本田畑を基準にし、上、上の下、中、中の下、下、下の下、見付(みつけ)とし、一斗劣りに位付けする。
一、屋敷の中、家屋敷地と庭の分は上畑、屋敷内の畑は調査の上、上位をつける。藪林は藪銭、林銭をとる。
一、漆、茶、桑、楮などが植えてある場所は植物には関係なく土地相応の位付をする。
一、旱損水損の申立があっても取上げず、其の土地相応の石盛りをする。
一、両毛作片毛作の差別をしないで石盛をする。
一、案内のものにも位付をさせ、相談の上きめる。
一、検地帳が出来たら、検地の役人、竿取、案内の百姓が連印して、清帳を二冊出し、一冊はその村の名主一冊は勘定所へ差し出す。
一、間数、畝歩、石盛その他検地の方法について、不満があるか否か、又役人のみならず竿取繩引などまで不正はなかったかどうかよく調査し、異議がなければその旨の一札を総百姓連印の上提出させる。
一、検地の時作物を踏荒さぬこと。関係役人、人夫の食料は有合せの野菜を用い、一汁一菜の外酒肴は一切用いぬこと。木銭を支払うこと。

 検地条目の中から重なものをひろい出すと、右【上】のようなことになる。これで検地の方法の大体が納得できたこととしよう。
 法の効果はその運営にある。いかに精細に規定された検地条目も、この規定の精神やその目ざすところと相反するような運営が行なわれたら、折角の例規も死文に帰する。検地条目に規定されたことがその通りに正しく実施されなければならない。条目の目的は、一定の規準の下に統一のとれた検地を実施するにある。これによって村々の田畑の反別や、石高の数字に共通の性格を与えその数字に絶対の権威をもたせようとするものである。
 この方針を貫くために検地役人や村の掛員に対して厳重なおきてが定められた。先ず検地のため出張の役人に対しては、検地条目を堅く守って絶対にうしろぐらい行為はしないという根本的態度を明らかに示し、その外百姓をいじめない。親子兄弟よしみのもの、逗留(とうりゅう)の宿のものなどに依怙(えこ)ひいきをしない、独断をしないで、同役と相談する、買物はその土地の時価で購入し、必ず代金を払う、どこからも、誰からも、金銀、米銭、衣類、諸道具、酒肴等を貰らわない、虎の威をかりる狐のようにお上をひけらかして威張るようなことはしない、不作法のことや好色的な行為みだりがましいことはしないことなど、具体的に禁止事項をあげてこれを遵守して破らないという起請文(きしようもん)を書いて誓わせている。従者の誓詞も大体同じであるが、博奕や賭ものの勝負をしない、大酒をのまない、朋輩と喧嘩をしない、お供の外自由外出をしないなど、いかにも従者にふさわしい誓いとなっている。一方、村方の案内者の方は、検地役人の禁止事項を裏返しにしたもので、つまり金銭や物品で役人を誘惑しないとか、役人に売った品物の代金は相場通り請求するとか、依怙(えこ)ひいきをしたら、役所へ通告するとかいうことである。尚役人と同様に自分達も一切賄賂などは受けつけないともいっている。要するに村役人として検地が全て公明に正確に行なわれるよう専念協力すると誓っている。このように検地の実施については入念な配意があったのである。
 序(ついで)にいっておきたいことは、この入念な配意を裏からのぞいて、これ程厳重にその行為を取締らなければならないのは、そのような不正横行の事実があったからであるといって、検地の役人や村方の案内人を、悪者にする証拠として誓詞や起請文を引き合いに出す者がある。勿論、非道の役人も若干はあったし不正の事実も存在したと思う。然し私たちは、これを百パーセント役人達に対する不信のあらわれだという風にだけ見ずにその真底にあるものはあくまでも適切公平な検地の施行であり、最も正確な数字の把握ということであったと考えたい。それを果たすための、細心の配意があらわれて役人たちの起請となったのであると思う。裏からのぞいて、ものごとを逆に見る態度には一がいに賛成できない。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)53頁〜58頁
このページの先頭へ ▲