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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

一、村の成立

第2節:検地

検地の方法

 寛文八年(1668)、遠山村の検地帳を見ると、

 めうが沢
  弐間
  三間 下々田六歩        三左右衛門
 同所
  弐間半
  五間 下々田拾弐歩       伝右衛門
 小林
  九間
  拾壱間半 中畑三畝拾三歩    徳右衛門
 同所
  拾壱間
  拾四間 中畑五畝四歩      又右衛門

という形式である。宝永の吉田村では、田と畑と別々の帳面になっているが、田の分は

 前
  上田  弐拾七間
      拾間 九畝歩       加兵衛
 同所
  上田  弐拾六間
      拾間半 九畝三歩     文左衛門
 同所
  上田  八間
      七間半  弐畝歩     同人

となっている。田畑の所在字名、上、中、下の品等、畝歩は、杉山、遠山、吉田、三ヶ村とも同じに記載しているが、杉山村では、持主と作人とを誰某分、何某作というように書きわけているのに対し、遠山と吉田では、持主と耕作者の区別がない。一本槍である。それから、遠山、吉田の方は、畝歩の外に、田畑の縦横の間数が註記してあるが、杉山にはこれがない。これは初期の検地とこれを踏襲(とうしゅう)して整備した江戸時代の検地方法とのちがいであり、又、小農自立政策に基く独立農家進展の差によるものであることに注意しておこう。
 さて遠山の検地帳には先ず最初に

 めうが沢
  弐間
  三間 下々田 六歩         三左右衛門

とあることは前にあげた。これは又、何と、ケチな話ではないか。僅か六歩のしかも下々田という下等の田までを年貢の対象にするのかといやな気持になる。戦後のある時期に、税務署が鶏三羽から、庭先の柿や栗の木まで所得の対象に見積ったことがあった。税法はどうあらうが、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)のそしりは免れまい。下々田六歩は江戸時代の重税を裏書きしていると思われて甚だ釈然(しゃくぜん)としない。だがこの時は少し事情がちがっている。重税ではなく別の角度から見なければならない。それは先ず持主の確定である。六歩の田がこの検地によって、百姓三左右衛門の土地であると確定され、権利が保証されたことになる。今なら土地登記簿に登録したのと同じである。どんなに零細の田畑であっても、その持主がある以上これを明白にしておかないと本人の不利になるし、紛争の原因となり易い。ひいて社会不安をもたらすおそれもある。僅か六歩の田が検地帳にのせられたわけはこう考えれば至極当然である。それに検地の仕事は一村限りの検地帳を作成すること、つまりそれは村の区域を確定することになるのだから、地味が悪いとか、面積が小さいとかいって、これを除外すれば、村の領域はあいまいのものとなって定らないわけである。とくに村と村との境では、この問題がおこる。村の範囲を確定するためには、精密な検地が必要だったのである。
 次にそれはそうとしても下々田という貧弱な水田からいくらの年貢がとれるのか、これもあまりに計算がこまかすぎるという気がする。だがこれにも別の見方ができるのではないだろうか。下々田を耕作すること自体は決して歓迎さるべきことではないが、下々田に格付けされることは必ずしも不利であるとはいえない。実はなるべく下等の土地として格付けして貰った方が有利なのである。上、中、下、下々とそれぞれの品等によりその「石盛」が定められ、その生産高が算出される。それが年貢の対象になるからである。下位の品等に格付けされることは一向さしつかえないのであるが、間違っても上位に格付けされることは迷惑千万なのである。勿論悪い田だから下々田となったのであろうが、最低にランクされたということで、一種の安堵感もわくわけである。「百姓の不作話と商人の損話」とか「百姓の去年作」とかいうことわざがあるように、年貢の重圧からのがれるためには悪い田地であり、不作と認められる方が百姓のためには都合がよかったのである。前出千手堂村々鑑帳にも「村方山続き作場嵯峨勝ニ而悪場ニ御座候」といって、土地の悪いことを強調している。百姓はこの田地にかたく結びつけられて、売買譲渡ができなかった。年貢もこの田地とともに一生百姓の体からはなれなかった。課税標準はひくい方がよかったわけである。
 検地の方法をしらべることが目的であったが、話が横にそれた。然し耕地の面積や、等級の問題は百姓の生活にとっては一番大切なことであるから、ここで検地帳の語るところに耳を傾けるのも無駄ではないと考えたからである。
 さて二間に三間、六歩の地積の出し方をしらべてみよう。長二間、横三間の数字は、実測の結果をそのまま単純に書きあらわしたのではなく、この数字に落着くまでにはいろいろの操作がしてあるのである。その方法は先ず、田畑畦畔の屈曲を一直線に見通し、内外出入の坪数を平均し、矩形に見立てて、その長さと横をはかる。小畝歩の場合は間竿だけをつかい、長い時は間繩を使用する。実測した間数と、この間数によって出た畝歩を手帳にしるす。この手帳の数字を浄書し、実測の数字を補正したものを野帳という。補正のしかたは次のようにする。

一、繩だるみの除去、丈量の時、水繩を強く張っても若干たれ下るので、この分を引去るのである。間数に応じて次のようにするのが通例である。
 五間まではそのままで、繩だるみをみない。
 六間より十間までは五寸引
 十一間より二十間までは二尺引
 二十一間より三十間までは五尺引
 三十間より四十間までは九尺引
 繩だるみの除去は丈量の時、右【上】の数を差引いて呼びあげさせ、それを手帳に記入する場合もある。

二、畦畔は左右へ一尺宛、計二尺を引く

三、繩心(なはこごろ)を適用する。地積に余裕をもたせるため、長さを実測の八割、横を九割とする。長さ九割横を八割の場合もある。

四、端数を切捨てる。六尺の十分の一、六寸を一分、以下その倍数を五尺四寸まで順次九分までかぞえ、これに合わぬ数字は切りすてる。

 こうして補正した数字を野帳に朱書するわけである。これを「朱間」をきるという。この「朱間」の長さと横の間数と畝歩を清書したのが、「清野帳」である。「清野帳」は村方へ貸出して閲覧(えつらん)させる。村々ではこれをうつしとり、内容を検討して、その持主の名前、字、間数、道堀、村境、脇書、方角等相違ない旨を答申するのである。こうして本式の検地帳が作成されるのである。
 遠山村の検地帳の数字もこのような手順を経てできたものである。そこでこの長二間、横三間、六歩の地を実測のまま計算したらどんな数字になるか。参考のために還元してみよう。長さ二間、横三間は繩心を長八、横九とすれば繩心割引の前は、二・五間と三・三間である。(問題を簡単にするため端数はそのままにしておく。)即ち二間三尺と三間一尺八寸である。これに畦畔右左一尺宛を足せば二間五尺、三間三尺八寸となる。五間以内だから、繩だるみの補正はない。これを畝歩にすれば端数をすてても、長さ二・八間と横三・六間となり、畝歩は一〇・〇八歩となる。検地帳より四・〇八歩多いことになる。ついでにもう一つ、吉田村の

  字前 上田 長弐拾七間
        横 拾 間 九畝歩    加兵衛

を検討してみよう。
 二十七間と十間の繩心(長さ九、横八)補正前は、三十間と十二・五間である。繩だるみは五尺に二尺、畦畔は一尺宛、合計すれば、長さ三十間と七尺即ち約三十一間、横は十三間となる。従って、実畝歩は四〇三歩。一反三畝十三歩強である。繩心を長八、横九として計算してみると四〇一歩、一反三畝二歩となる。検地帳との差は四畝七歩の上である。大体こんなところが実情だったのではあろう。
 現在でも田畑の面積に多少の「延び」のあることは、一般の常識である。ある畑を分筆して二、三回に亘って分譲した結果、台帳面積では、五坪しか残らないのに、現地では二畝の上も残っているという実例もあった。明治十八年(1885)に大蔵省の訓令で「地押調査」を実施し、実地と異るものは帳簿の訂正を行なったが、それでも尚、現在田畑に歩延びのあるのは、このような検地の仕方がその原因になっているのであろうと思われる。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)48頁〜53頁
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