第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
一、村の成立
第2節:検地
検地の事例
検地によって「村高」がきまった。いいかえれば、土地の丈量と石盛りによって、石高が算出され「村高」がきまったのである。そして村の区劃が一定し、制度上の村が成立した。次に石高のきまった一筆毎の田畑には、その耕作者が結びつけられ検地帳に登録された。これを本百姓といい、独立した年貢負担者となった。独立農家が機能的に結びついて生活共同体の村が出発した。このことを村の事例によってもっと委しくしらべてみよう。
先ず杉山村の検地帳からはじめる。この検地帳の一部をあげてみよう。次のような形式で書かれている。屋敷前 外記分
一 中畑拾六歩 主作
同所 同 分
一 同所上田壱反三畝弐歩 同作
うしろ谷 同 分
一 中田壱反五畝廿五歩 同作
(略)
やしき前 主計分
一 中田弐畝廿四歩 弥七作
むくの入 主計分
一 下田壱反拾歩 弥七作
同所 外記分
一 下田六畝拾弐歩 新四郎作
同所 重四郎分
一 中田壱反弐畝拾五歩 主作
同所 大蔵院分
一 中田壱反七畝弐歩 主作
(略)
外記分
屋敷 弐畝歩 三左衛門居
同 壱畝六歩 小五郎居
同 六畝廿八歩 帯刀居
同分
同 四畝拾弐歩 重左衛門居
(略)
上田合弐町四反八畝弐拾弐歩
中田合三町五反七畝弐拾六歩
下田合拾壱町弐畝歩
田合拾七町八畝拾八歩
上畑合壱町弐反六畝拾七歩
中畑合壱町弐反四畝四歩
下畑合拾壱町七反六畝弐歩
畑合 拾四町弐反六畝弐拾三歩
田畑合 三拾壱町三反五畝拾壱歩秀吉の検地では先ず面積のあらわし方を一定して、町段畝歩を用いた。そして歩の面積は一間六尺三寸四方とし、三〇〇歩で一段、十段を一町、一段の十分の一を一畝とした。一歩の広さがちがうだけで、町段畝歩の関係は現在と同じである。面積のあらわし方もそれまではいろいろで、反(三六〇歩)大(二四〇歩)半(一八〇歩)小(一二〇歩)などというのもあったが、これを町段畝歩に一定したのである。又、一歩の広さも一間を六尺、六尺二寸、六尺五寸など、領主や地方によって、様々であったものを、六尺三寸ときめたわけである。
杉山村の検地帳をみれば、これが右にのべたような一定の基準によって測定され、記帳されたものであると考えて間違いないだろう。「屋敷前」とか「うしろ谷」とかいうようにその田畑の所在する字名(あざめい)を書いて、一筆毎にその面積が明らかにしてある。その下に誰が耕作しているのか明記してある。「外記分主作」というのは外記の田畑を外記が自分でつくっているということである。「主計分弥七作」は主計の土地を弥七が耕作しているという意味である。この検地以後、年貢は耕作者が納めるのが原則となるのであるが、このように耕作者の名を掲げたということは、年貢の負担者を確定したことになるわけである。この検地帳の表紙は写真のように慶長弐年酉二月十日 御繩打
武州比企郡杉山村
案内 外記
帯刀と書いてあり、末尾には上、中、下の等級別に田畑の面積を集計し、屋敷を加え、総合計「三拾壱町三反五畝拾壱歩」としてある。一村限りの検地帳であることも明瞭である。杉山村の検地は、太閤検地の意図のとおりに行なわれたことがわかるのである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)44頁〜48頁
田畑の一筆毎の面積とそれを集計した村の耕地面積はこれで明らかになった。それで次の問題は、石高の出しかたである。然し私たちは、その前に、この一筆毎の面積がどのような方法によって計られたものであるか、それを少しくわしく調べてみたい。これは、石高の算出にも緊密(きんみつ)な関係をもつからである。
遠山村と吉田村との例によって仕事を進めよう。これは寛文八年(1668)と宝永二年(1705)の検地であるが、江戸時代の検地の方法は大体秀吉時代のきまりを次第に整備してきたものであるから、その根本方則にはかわりがない。一間六尺三寸を六尺一分と改めた外は、条文に精粗の差がある位のもので基本の方針は同じであるとみてよい。杉山も遠山も吉田もその方法は同様と考えてよいであろう。