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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

一、村の成立

第2節:検地

制度上の村の成立 生活上の村の成立

 さて村の成立ということを考える場合以上のように制度の上、形の上の成立と、実質的な村の生活の上から見た、つまり機能的な村の成立と二つの見方があると思う。
 太閤検地には、前に書いたとおり耕地一筆毎の年貢負担者を確定するという面がある。これを学者は小農自立政策と呼んでいる。この政策は実を結んで、自立した小農によって組織され村々が江戸時代から明治に及び今の大字となって残っており、今にその機能が働いているのである。それでこの小農を構成員とする村の出発は、矢張り小農自立を目途として実施した太閤検地にはじまると考えてよいわけである。「村高」という計数でとらえた形式上の村の成立は、それぞれの検地の時期と同時にあった。而して自立を目途として解放された小農は、従来の大地主経営(家父長制的経営という学者もある)の隷属(れいぞく)関係から離脱(りだつ)して却ってその生活は不安にさらされた。耕地は狭く、農舎や農具も充分持たず、経営の知識や技術は未熟で自立の生産活動は不可能であった。そこでこの生産の幼弱性をカバーするために、お互の協力態勢が生れ、血縁や地縁をもとにして、大小の共同体が構成された。この共同体が村の地域に構成されたのが村落共同体で、村の機能というのはこの共同体の側面をとらえたものである。それならこのような機能的な村はいつ成立したかといえば、発生的には同族相助の日本古来の共同意識に基いたものであるから、その実体は古くから存在したといえる。従ってその時期を一定して定めることは出来ないが、少くとも私たちの村々では、政治の上で村の形が整えられた時にこれと表裏して出発し、その体制が成立したものと思われるのである。
 杉山村のように、早い時代に検地の行なわれた村ではこれを契機に村の地域も確定し、小農の自立も進行して、村の共同体制が成立していったであろうし、江戸時代に入っておそい時代に検地のあった村々では、はじめの検地の意図により小農自立の風潮が浸潤(しんじゆん)し、これに伴って地域の共同体制がかたまりつつあった。これを整理して確定したのが検地であると考えられるから、この検地は村の成立のしめくくりの役割を果したと考えてもよいだろう。
 尚幕府の時代まで検地のなかった村々のとりあつかいについては、一応次のように考えておこう。中世の末期になると戦国大名がそれぞれ一円知行の分国をつくりだし、その領内の土地や農民を直接に統一支配するようになった。そこでその領主権を確定し、農民を直接把握して荘園制の土地制度をうちやぶり、又領内の財政的基礎をあきらかにするなどのために、大名たちは周密(しゆうみつ)な検地を実施した。北条氏綱は相模で永正十七年(1520)その子の氏康は天文十一、二年(1542、1543)に同じ相模で検地を行なっている。氏康が上杉憲政を追って関八州を手にいれたのは天文二十年(1552)である。「北条家御領役帳」に「狩野介が知行四十五貫文比企郡青鳥村居卯検地辻…」とあり、川島村の平沼、戸守、東松山市の石橋の各村に「卯検地」の語がみえるから、この地方では卯の年に検地のあったことがわかる。卯の年は弘治元年(1555)である。ある程度の検地が行なわれたと考えてもよいであろう。それで太閤検地の行なわれなかった村々はこの北条氏の検地で一先ず間に合わせたのではないだろうかという考え方である。
 要するに検地によって「村高」による村の姿が確定し、検地の目指す小農自立政策とともに、村の共同体制が出発したと考えたわけである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)42頁〜44頁
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