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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

はじめに

嵐山町の村々

 地誌(新編武蔵風土記稿)編纂の資料を調べておけという幕府役人からの廻文は、越畑村から広野村へ、広野村から杉山村、杉山村から中爪村というように次々と伝達され、最後は小川村で、小川村から発信者の井上、築山の手許に戻っている。南薗部村から始って五十二の村々を廻ったのである。この頃は今とちがって随分沢山の村々があったことがわかる。南北の薗部村は今の川島村に属するがあとの五十ヶ村は東松山市、滑川村、嵐山町、小川町の四市町村の区域にあったのである。それも四市町村の全域ではなく四市町村のうち比企郡の北方に含まれる地域だけに五十の村々があったのだから、その数はきわめて多かったわけである。念のため「風土記稿」で数えてみると、郡の南方にあたる地域川島村、鳩山村、玉川村、都幾川村(平村、明覚村)を含めた範囲には一一〇の村々があった。吉見村は横見郡であるからこの中にははいっていない。

比企郡正保年中改定図|スキャン画像 比企郡正保年中改定図 「新編武蔵風土記稿」より転載  さてこの数多い村々のうちで、嵐山町の区域にあったものは、廻文の宛先にあげられているもの、つまり郡の北方にあるものが、前記の越畑、広野、杉山の外に太郎丸、勝田、吉田、古里、遠山の五ヶ村、郡の南方に属する村々では、菅谷、志賀、平沢、千手堂、鎌形、大蔵、根岸、将軍沢の八ヶ村で、合計十六の村であった。これはこの町誌にとって大へんに重要なことである。前述のようにこの町誌はこの村々の歴史を調べることを主な仕事としているからである。さてこの十六の村に広野村の飛地であった川島が加って、今はいづれも、大字とよばれて、嵐山町をつくっている。十六の村々は嵐山町の大字となってから、制度の上ではその性格が一変した。嵐山町は国の行政区画の一単位で独立の組織と運営をもつ地方公共団体である。大字は、その地域の呼び名にすぎない。然し昔はそうではなかったのである。一つ一つ独立した聚落団体であった。地方自治法によって規定されている今の町村とはちがうけれど、矢張り村々には一定の組織があり、その組織によって村政が運営された。お互に他をおかし合うようなことはせず、それぞれ独立の組織をもって共同体制をつくりあげ、その機能を発揮していたのである。
 明治二十一年(1888)、町村制法の制定によって、従来の村々は、新しい村の大字となって、村の名をすてた。大字は、新村内の一地域の呼び名である。従来の村は村の名をすてると共に法制上の独立権を失ったのである。これは制度上の一大変革であった。
 さて私たちの仕事の中心課題は、昔の村という共同体の歴史を知ることである。と考えた理由はこの辺に存するのである。なぜなら町村制法による町村の合併統合は、制度上の大変革であった。然しそれにもかかわらずこの変革は江戸時代から永く続いて来た従来の村々の内容までも一変することはできなかったからである。大字となっても、昔の村は生きていたからである。
 このことは、昔の村、つまり大字は一つの部落を形成して、今でも相かわらず、生活共同体としての機能を発揮していることから明らかである。先ず農業生産の上からみれば、農道をつくったり、灌排水の施設を整備したり、農業用の建造物や機械類をそなえたりして、これを共同で利用するのは部落単位である。共同作業や共同出荷など、さまざまの協力体制の場も部落である。社会生活の面から見ても冠婚葬祭、土木、祭典、警防、衛生、教育など、矢張り、部落が協力の基盤となっている。
 そればかりではない実は政治の面からみても今の政治は国−県−町村−部落というコースをとおって浸透(しんとう)してくるのであって、私たちが現実にこれをうけとめる場は部落になっている。部落は法制上の政治区劃でないにもかかわらず、現実には行政の末端組織になっていることは周知のとおりであり、更にその政治が部落の段階までおりて来たときにこれについての対応(たいおう)が、さまざまの形に屈折(くっせつ)して現われるのである。政治が部落の総意というような意識の層を通過して現われるからである。かくて国の政治や県町村の政治を現実にうけとめる場は部落となっているのである。つまり私たちの考へ方や行動は部落によってつよく規制されているのである。
 このように昔の村が大字と呼ばれ部落となって、今も生きているということを、右【上】のような概括(がいかつ)的ないい方でなく、現実の実例によって精密な調査をとげその実態をつきとめることも私たちにとっては重要な仕事である。
 然し私たちはこの仕事は一先ずあとに廻して、はじめにいったように先ずその昔の村々の成立や、組織や機能、そこに住んだ祖先の生活状態などを調べていくことにしたい。この仕事によって、どうして昔の村がこんなに根づよく生きていて、今になってまでも、私たちの意識や行動を左右しているのかというその理由がわかってくるだらうと思うからである。
 尚、念のため、この十六の村々が合併して、今の嵐山町に至るまでの経過を調らべておこう。これは、これからの仕事の上に必要となってくるからである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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