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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

はじめに

調査の方法

 この町誌編纂の方法は、前にもいったとおり、先学の研究調査の成果から、この町に関係あるものだけをとり出して、これを時代順にあるいは地域毎に並べていくという形のものではない。すでに明らかにされているといないとにかかわらず、とに角、直接資料にあたって素朴な質問を発し、この質問に応えて、資料の物語るところを記述していくという方法をとるのである。このため資料のない時や資料のないところや資料のないことがらについては質問の発しようもないということになる。それで記述の範囲は全く資料の制約(せいやく)をうけることになる。具体的にいえば、「風土記稿」も「沿革」もその内容は江戸時代以降のものである。村々の旧家に保存する古記録類も主として、近世の村役人関係のものである。従ってこの町誌の歴史的な記述の分は、結局江戸時代が中心になってくる。「風土記稿」は全町の村々に亘り、「沿革」は旧菅谷村の各村について書かれているからまだよいが、古記録の方は、遠山、千手堂、鎌形、古里、吉田、越畑、勝田、広野、杉山などが主であって、その他の村々についてはまだ探索(たんさく)の手が届かない。従ってこれも必然的に古記録の存する村々の記述が多くの部分を占めるようになる。その村々の古記録についても、その種類は様々で、検地帳、名寄帳、年貢割付状、皆済目録、宗門帳などと、それがみな揃っているわけではない。従ってこれもないものについての研究はおよばないという結果になる。
 直接資料にあたって、その資料の解釈を中心として記述を進めようとする方法的立場から、本誌の内容は、自然に右【上】のような制約の中に成立することになる。
 さて、しからば、その資料に対して何をたづねようというのか、質問の中心は何であるのかといえば、それは、つまり私たちの祖先のはじめから今にいたるまでその生活の場所となり私たちの生活を支えている村という共同体の歴史を知ることである。その村がいつどのようにして成立し、その村の中でどのような生活が行なわれて来たか、これが質問の主題である。これがこの町誌の中心問題となる。これがある程度明らかになれば、それによって、現在の町がその歴史的展開のどんな段階にあるかということがわかり、それは又、将来への企画の大切な基盤となるからだと考えるからである。村というのは現在の大字である。このことについてはあとでのべる。
 尚、書き加えたいとこは資料の制約から、その内容が、時代的、地域的、事象的に偏頗(へんぱ)になるといったが、これは、偏頗のままこの時代に、この地域に、こういう事象があらわれたというだけに止めてはならないということである。ある時私たちの村の片隅にあらわれたごく日常的なことがらでも、それは、国の歴史という長い時の経過と時代の移り変りというものに全然無関係のものではあり得ない。だからごく些細なことがらであってもこれを一応、大きく広い歴史の上にのせてみて、それがその時代のどの社会にもあった一般的な事象であるのか、それともこの村だけに限った特殊のあらわれであるのかを見きわめる必要がある。一般的なものだとすれば一ヶ村の例をあげて、他の村々も同じであったと判断できるし、特殊なものだとすれば、どうしてそのような特殊のものが現れたのかという点をつきつめて、その地域や時代の特色というものに触れることが出来ると思う。それで私たちはこのことも念頭において仕事をすすめなければならないと考える。然しこれはこの町誌の段階では充分に果たし得ないのではないかと思う。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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