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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

はじめに

「菅谷村の沿革」と武蔵国郡村誌

 旧菅谷村役場の土蔵の中に「菅谷村の沿革」といふ写本が保存されていた。半紙判二十二行罫紙、一八五枚より成るものである。昭和三十五年新庁舎に移転後、その所在が不明となっていた。たまたま町誌編纂の仕事がはじまり、この写本は貴重な資料の一つであると考え、百方探索(たんさく)したが発見出来ず、まことに痛惜(つうせき)の念に耐えなかった。そんなある日不意に、内田房男君が、何か土蔵の中で探しものをしていたようであったが「こんなものがありました」といって持ってきてくれたのが、その「菅谷村の沿革」写本一冊であった。「おゝこれだ、これだ、これを探していたのだ」と思わず声を出してよろこんだのであった。
 この「菅谷村の沿革」は扉にその由緒を説明して
「昭和御大典記念事業トシテ埼玉県史編纂ニ当リ其ノ資料提供ノ為、各処探索セシニ、元村長内田充五郎宅ニ之ノ書冊アルヲ発見シ、依テ後日ノ参考ニモト借受ケ謄写シ置クモノナリ
 昭和三年十月 菅谷村長 岩沢弥市」とある。
 これにより、この写本には原本のあったことがわかる。その原本は内田充五郎氏の所蔵にかかるもので、埼玉県史の資料を探索しているときにこの書冊を発見したというわけである。然しその原本が、何時、誰の手によりどんな理由で作成されたものであるのか、それは明らかにされていない。然しそれはさておいて、この本の内容を調べてみよう。
 この本は「武蔵国比企郡○○村」という標題の下に菅谷村からはじめて

 一、沿革 1名称 2所属 3分合 4管轄
 二、位置疆域 1位置 2東西南北
 三、幅員 1東西 2南北 3周回 4面積
 四、地味 1色 2質 3適種
 五、地勢 1山脈 2水脈 3東部 4西部 5南部 6北部 7全地々勢
 六、地種 1官有地 2民有地 3総計
 七、里程 1元標所在 2本県庁へ 3本郡役所へ 4近駅(東、西、南、北) 5東京へ、著名市邑へ
 八、耕宅地及塩田 1田 2畑 3宅地
 九、字地 現(旧)
一〇、戸数 1士族 2平民
一一、人口 1士族 2平民
一二、本籍年令
一三、生死及就籍除籍
一四、牛馬
一五、戸長役場 1所在 2所轄町村
一六、学校 1所在 2地坪 3建坪 4種類 5生徒 6教員
一七、神社 1所在 2祭神 3社格 4創建年月 5祭日 6氏子 7末社 8宮司
一八、寺院 1所在 2宗派 3開基人名 4開基年月 5住職
一九、道路 1等級 2長 3幅 4形状
二〇、地所 1官有地 2民有地
二一、山嶽 1所在 2形状 3高 4周回 5登路 6樹木 7景致
二二、林籔
二三、原野 1所在 2所属 3段別 4形状 5生産
二四、河渠 1発源 2流状 3所属の長、広、深 4水質 5灌漑 6運輸 7物産
二五、橋梁 1所在 2長、幅 3構造 4架設年月
二六、湖沼 1所在 2縦横 3面積 4水利
二七、租税 1国税 2地方税
二八、旧租 1田高 2畑高 3屋敷高
二九、旧検地帳表書合計、検地帳所載の字
三〇、物産
三一、民業

という風に三十一の項目に従って、各村とも全く同様の形式で、その実態が記載されている。内容は整然として統一されており、村明細書とか村勢要覧とか名づけらるべきものである。
 さて、昭和二十八年(1953)に埼玉県で出版した「武蔵国郡村誌」は、明治のはじめ、時の県令二代白根多助、三代吉田清英の二期にわたって編纂されたもので、県撰の村誌であるといわれる。この書はもと、明治八年(1875)六月、太政大臣三条実美の示達に基いて県が調査編纂し、地理寮に提出したものの複本であるという。そこでこの本を開いて各村々についてその記載事項を見ると、郷庄領、疆域、幅員、管轄沿革、里程、地勢、地味、税地、飛地、字地、貢祖、戸数、人口、牛馬、舟車、山川、川堀、森林、道路、堤塘、神社、仏閣、役場、学校、電線、古跡、物産、民業の項目に分けて、村々の実態を順序正しく、全く同じ要領で、かなり詳細に書きあげてある。これによってその調査の要領や記載の形式などが、「菅谷村の沿革」ときわめてよく似ていることに気がつくのである。そこでこの似ているということを追求してみようと考えついたわけである。
 そのために内容の検討を試みることにする。計数的のものを比較してみる。例を菅谷村にとる。

「郡村誌」の内容(以下すべて「郡村誌」と略記する)(括弧内は「菅谷村の沿革」の記載)
  幅員 東西十町二十五間(東西十町二十間)
     南北十四町二十七間(南北十四町二十四間)

  里程 熊谷県庁より 南方三里三十町四十二間(本県庁へ十里三十町三十七間二尺)
     松山町へ 一里三十四町四十九間一尺(一里三十四町)

  税地(民有地)
   田  三〇三畝一五歩(四八三畝一一歩)
   畑  二八九四畝二〇歩(三五〇畝〇八歩)
   宅地 二三二畝二六歩(三〇七畝二二歩)
   山林 三〇三六畝〇五歩(六三八五畝一六歩)

  貢租
   地租 米八石四斗一合(田高米四石〇三九五)
   金  三四円六七五 (畑高永一七貫二八八文八〇二 屋敷高永三八文八六六)
   賦金 二七円五〇  (雑税九四七文五五)

  戸数
   本籍 四六(本籍 四六)
   寄留  一(入寄留 七)

  人口
   男 一〇〇(男 一三八)
   女 一二〇(女 一四三)

 このように計数的には一致せぬ点が多い。これはわけがある。調査の時期が異なっていることに由来するのである。郡村誌ではその凡例に「田畑其他反別は明治九年(1876)改正以前のものを記す但し各村録申による」「戸数、人口、学校生徒……は総て明治九年一月一日の調査による」とあって、数量の根拠と調査の時期を明らかにしている。これに対し「菅谷村の沿革」は、地所については、明治九年九月調査の分と註記してあり、役場は、各村とも連合戸長役場(明治十七年設置)であり、県庁を、郡村誌では熊谷(明治六年四月熊谷県管轄)「菅谷村の沿革」では浦和(明治九年九月に埼玉県管轄)としている。これらのことによって、郡村誌は明治九年(1876)埼玉県管轄前の資料をもとにしたものであり、「菅谷村の沿革」は、聯合戸長役場以後の記事がないから、明治二十二年(1889)町村制法によって成立した菅谷村以前の資料に則つたものであることがわかる。それでこの両者の内容には十年の差があり、郡村誌の方が内容的には十年早く成立したと考えてよい。計数の相違はこれによって生じたものである。このことは又「口上書」が「風土記稿」の資料であったのと同じように「菅谷村の沿革」がそのまま「郡村誌」の資料であったと考えることを許さない。内容成立は「郡村誌」の方が十年早いからである。かといって「菅谷村の沿革」には「郡村誌」の影響と思われるものは見当らない。然し「風土記稿」より引いたと思われる箇所は、管轄、社寺、等の歴史的記述の中に多くあらわれている。
 然らば「郡村誌」と「菅谷村の沿革」は全く無関係であらうか、いや、矢張り何かの関連があったと考えざるを得ない。前述のように、調査記載の要項がきわめてよく似ていて殆んど一致していること。「郡村誌」の凡例に「田畑其他反別は明治九年改正以前のものを記す。但し各村の録申に拠る」と書いてあることなどから、「郡村誌」の資料を各村から提出させたことが明らかである。そこで考えられることは、県が村々に対して、「郡村誌」の調査要領を示した。村はその要領に従って調査、記述して、県に提出した。その複本にあたるものが各村にあった。連合戸長役場乃至は「町村制法」による菅谷村が成立してから、連合戸長、又は村長の手で、それらの複本を集め、更に、他の資料を入手して、古い部分を補い、新しい部分をつけ加えた。こうして出来上つたものが「菅谷村の沿革」ではなからうかということである。この編者は統計的資料のよく整っている点から推して、決して個人ではない。個人のよくするところではない。おそらく村の機関によったものであらう。これが「郡村誌」と「菅谷村の沿革」との関連である。但しこれは一つの推量である。今後「風土記稿」に対する「口上書」のような具合に「郡村誌」のために提出した資料の複本でも発見されれば、その複本と「菅谷村の沿革」とをくらべて、この推量があたっているかどうか実証することも出来るわけであるが、とも角今のところこの推量は正しいものと考えて論をすすめることとする。内田充五郎氏は町村制法による菅谷村第一代の村長である。よって、その孫の代にあたる内田講氏を訪ねて「菅谷村の沿革」の原本に相当する書冊の有無を質したが、全く心当りがないという。原本を見たら「菅谷村の沿革」編纂の事情について何か手がかりを得るかも知れないと考えたのだが、これは徒労(とろう)に終った。昭和三年(1928)「菅谷村の沿革」を書写した役場職員の中(書写は三人の筆蹟が認められる)唯一人の生存者、長島勇三郎氏に原本の由来について、何か聞いたことがあるかどうかを尋ねたが、これも一切記憶がなかった。従って前記の推量を否定する資料も出て来ないのである。
 「菅谷村の沿革」は前述のように、各村とも広範(こうはん)な調査の項目に従って、全く同じ要領でその実態が記述されている。土地、人口等に対する計数の記述は精細である。従って一面極めて整然としているが、その反面、用語表現等に若干稚拙(ちせつ)と感ずる点がある。広範囲の事項に亘り、精細な数字を連らねていることは、この仕事に数人の人員が可成り長年月(一、二年)従事したことが考えられるし、整然と統一していることは一人の統轄者が専門にこれを整理編述したことを想像させる。そして、言葉や文章に洗練(せんれん)を欠くことは、これ等の関係者が、その道の専門家ではなく、一般村民の何名かであったことを語る。このことは、集められた資料が学者、専門家の評価を経ることなしに、即ち原形を害ねることなしに、そのまま、生のままで、ここに書残されていることを証するものであるから史料としては却って貴い。就中(なかんづく)この書の中に、旧検地帳の表書を掲げ、田畑、屋敷、山林の町歩を挙げ、田畑の石盛を示した点などは、珠玉の史料である。これが旧菅谷村九ヶ村に亘って殆んど余すところがない。
 かくして「菅谷村の沿革」も又、村誌編纂上の極めて重要な資料となるのであるが、前述のようにこの写本がはじめ「郡村誌」の資料として集められたものであり、更に連合戸長、あるいは村長の手でこれがまとめられたものであるとする立場に立てば、これは前にものべたように、個人の厚意にだけ依存して集めた資料とは異り、いわば官庁的権力の下で調査集蒐したのであるから、その仕事は、どの村に対しても同じようによく行きわたり、村毎の資料の上に凸凹が現らわれない。そのおかげで同じ基盤(きばん)の上で村々の実態を比較調査することもできるし、又、ただ一ヶ村だけに存する事象(じしよう)を全体の村におしつけて、ものを判断してしまうというような危険をさけることもできるのである。「菅谷村の沿革」は「沿革」と略記して、大いに活用を期するつもりである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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