第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
はじめに
新編武蔵風土記稿
私たちは今、幕府の「新編武蔵風土記稿」は、この「口上書」を主な資料として編纂されたものであると考えている。この考えは果して当っているかどうか、これを確かめよう。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
それはこの町誌編纂の仕事の上で「新編武蔵風土記稿」の内容をどのようにとりあつかっていくか、つまり重く見てよいか、あるいはその反対でなければならないか、それをきめる上に大きな関係をもつからである。
そこで今度は「新編武蔵風土記稿」の記載を検討してみることにする。この本では先ず村の境域、領主等について 「村の四方東は太郎丸にて、南は杉山村に接し、西は越畑村、北は勝田、伊子の二村に続けり。東西二十八町、南北十町許り。戸数六十軒」と書きこれは殆んど「口上書」とかわらない。
「御打入の後高木筑後守広正に賜り子孫続きて知行せしが、元禄十一年(1698)御料所となり、同十三年(1700)黒田豊前守にたまひ、同き十七年(1704)木下求馬、島田藤十郎、大久保筑後守が家に賜りてより今に替らず。」としている。領主交迭(こうてつ)状況は「口上書」を簡略化しただけのものであって、事実上の相違点は見られない。
次に「高札場四ヶ所あり。小名 川島 爰は村の飛地にして東の方太郎丸を隔てし所を云う。勝田 是も村の飛地なり。北の方勝田村の辺にあり。上郷、中郷、下郷」とあるのは、高札場と字名を説明したもので、これも、口上書の範囲を出ない。
社寺については、
八宮社 村の鎮守なり、泉覚院持。
鬼神明神社 村民持。
金鑚社 此神社は当国の古社なり。児玉郡金鑚村金佐奈神社の遙拝の為に建しなるべし、持前に同じ。
泉覚院 本山修験、男衾郡板井村長命寺配下、本尊不動を安ず。
弥陀堂、薬師堂、二宇共に村持。と記しただけである。
広正寺については稍々解説的に記述し
「曹洞宗、市の川村永福寺の末、高木山という。慶安二年(1649)に寺領二十石の御朱印を下賜された。元は万福寺といって入間郡竜ヶ谷村竜穏寺の僧天庵が創立したものである。地頭高木甚左衛門正綱が、亡父高木広正追福のため、永福寺の起山和尚に請うて中興し、広正をもって寺号とした。広正は慶長十一年(1606)七月二十六日卒、法名は万福院殿大翁秀椿居士。正綱は寛永九年(1632)十一月十日卒、広正寺殿性空道把居士。起山和尚は元和六年(1620)十一月十二日に遷化(せんげ)した。本尊弥陀を安置する。小野篁の作だという。鐘楼に享保年中に鋳造(ちゆうぞう)した鐘を掛けてある」といって、比較的に詳細であるが、人名、法名年月日等すべて、「口上書」と一致している。以上が「新編武蔵風土記稿」の内容である。これによって、新編武蔵風土記稿の資料は全く「口上書」によったものであり、あるいは「口上書」記載以外の現地の聞取りに基いたものであると考えることが出来る。「新編武蔵風土記稿」の原拠(げんきよ)は「口上書」である。
さて私たちは今、町誌の編纂にあたり、その多くの資料は、先学の研究の成果にまたざるを得ない。私たちが過去の研究の上に積上げ得る何程のものが有るか全く期待し得ないと考えている。然しそれにも拘わらず私たちは、この町誌編纂の方法をたゞ過去の研究の集大成という形とはせず、昔の村々に残る古い資料を集蒐し、この資料との対話を通じて編纂の仕事を進めて行きたいと考えている。つまり、すでに国や県の歴史に関係して明らかにされている歴史事実や、それ等を記述した編纂著作物からの引用はなるべくさけて、今、村内に残る古文書古記録などが直接語り出してくれるものを主な内容として町誌をまとめたいと考えるのである。従ってこの仕事の基礎的作業は資料の集蒐である。それで町誌の内容もその資料があるかないか、多いか少いかによって時代的にも地域的にも自然、繁簡の差が出てくる。結局近世幕藩時代を主とした記述が大部分をしめることになる。この場合資料となるものは、村の家々につたわる古証文、古記録、系図等である。然しこれらは各家々の私蔵にかゝるものであり、資料所有者の厚意に基く積極的の協力がなければ、これを見ることは出来ない。各村の旧家に保存される古い文書が各村まんべんなく出てくればまことに都合がよいのであるが、これはむづかしいことである。ところがここに「新編武蔵風土記稿」がある。これは幕府がその権力をもって、各村から資料を提出させたものである。厚意に基く協力によったものではない。従ってどの村についても一様に調査が行きわたっていて脱漏がないと考えてよい。しかもその内容は、村々から提出した生の資料を、その儘かかげている。省略はあっても、作為の付加はない。そこで私たちは、この「新編武蔵風土記稿」を重要な資料として仕事をすすめることにした。集蒐のむづかしい資料の不足を補う上に欠くことの出来ない大切な書物である。尚この本の名は略して「風土記稿」と書くことにする。