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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

はじめに

明治以後の村の変遷

 江戸時代の村々は、明治四年(1871)の戸籍法の制定の時に、一つの連合の形が作られた。この戸籍法は町村を合わせて区をつくり、区毎に責任者としての戸長をおいて戸籍の状況を把握(はあく)させようとしたのである。
 この区劃は大区と小区とからなり、小区は四・五町又は七・八ヶ村を組合せ、十小区前後を合わせて大区とした。それで明治四年(1871)に、入間県では、十一大区、九十四小区が生れた。これが明治十二年の区制廃止まで続いた。この時代本町では

▽第六大区 第四小区に
 鎌形 将軍沢 根岸 大蔵 千手堂 遠山 平沢 菅谷 志賀の九ヶ村が属し、この小区中には今の鳩山村の奥田 須江 大橋 泉井 竹本の五ヶ村が入っている。

▽第六大区 第五小区には
 勝田 杉山 太郎丸 広野 越畑 吉田の六ヶ村が属し、高見 能増 奈良梨 伊勢根 高谷 上横田 下横田井中爪がこの小区に属している。

古里村は
▽第七大区 第九小区に属して、この小区には、比企郡から福田 和泉 菅田 古里 土塩の五ヶ村が入っていた。

 明治十二年(1879)に区制が廃止され、数ヶ村の区域に聯合戸長役場がおかれた。町村の規模を拡大して、行財政の基盤を強固にし、事務能率の向上を計るためであった。この時に、菅谷、志賀、平沢、遠山、千手堂、鎌形、大蔵、根岸、将軍沢が連合して、役場を菅谷に、又、古里、吉田、越畑、勝田、広野、杉山、太郎丸が連合して、役場を越畑においたのである。
 明治二十一年(1888)七郷村、二十二年(1889)菅谷村の形が出来る前、二十年(1887)に県の町村合併試案とでもいうべきものが出来た。この時は郡の区域も変更して比企は北と南の二つに分れ、北比企郡の中に、鎌形、神戸、大蔵、根岸、将軍沢、五ヶ村の合併で鎌形村。広野、伊古、中尾、水房、太郎丸の五ヶ村で、萱刈村をつくり、南比企郡の分へ、菅谷、中爪、志賀、遠山、千手堂、平沢の六ヶ村で菅谷村。越畑、吉田、勝田、和泉、杉山で松田村をつくるようになっていた。古里村は矢張り南比企郡ではあるが江川村に含まれた。江川村は板井、塩、西古里、鷹の巣、小江川及び大里の村々であった。(埼玉県市町村合併史参照)
 明治二十一年(1888)に制定された町村制法は、従来の自然発生的な弱小町村、つまり戸数や人口が少くて独立の能力に欠ける町村を合併して、有力な地方自治団体を作るのが目的であった。さて然し、この昔ながらの村をどう編成するかここに問題があった。従来の村々は極めて独立性が強く、永い年月の間に出来上って来た生活共同体としての性格が著しかった。その共同体はそれぞれの歴史と特色とをもっていたからである。このことについて金子堅太郎は次のような意見を発表している。
 「町村は昔からの共同の慣習で、一町村は一家のように考えている。村の吉凶は家の吉凶と同じで互に喜び合い悲しみ合っている。そして他村に対しては、事業の共同をしないだけでなく、風俗、習慣、宗旨、氏神などが異っており甚しいのは他村と結婚しないし、敵愾心(てきがいしん)までもっているものがある。灌漑用水の利用のため、上流村は下流村を圧迫し、争論などが絶えない。貧村と富村が合併し、富村の人口が多いと貧村を圧抑(あつよく)し、貧村の人口が多いと富村の財産がぎせいにされる。農村と商工村とが合併すると、農村側は町村費を戸数割・営業割にしようとし、商工側は地租割・反別割を主張して争論する」と江戸時代の村の性格がここにも現われている。町村の合併はむづかしい仕事であった。このような事情の中で、聯合戸長役場から大小区制、明治二十年(1888)の編成試案等といろいろの結合が実施されたり、考えられたりした末に最後に、聯合戸長役場の時の形で、菅谷村と七郷村が成立したのである。これが昭和三十年(1955)に合併して菅谷村となり、更に四十二年(1967)町制を施行して、嵐山町となった。これは記憶に新らしい。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)26頁〜28頁
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