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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第8節:稲村坦元先生原稿「菅谷村史」

笛吹峠考

 将軍澤ノ南方数町ニ在リ、亀井村ノ大字須江・奥田ノ両區ニ境界セル稍々北寄ノ長頂巒脉*1ノ東西ニ蜿蜒*2シタル宛然*3肥後ノ田原坂ニ髣髴*4セシ中央ノ切處*5一夫両手ヲ揮ヘバ*6萬卒超ユルヲ得難キ真個*7天嶮*8ノ要扼*9タリ往古鎌倉ヨリ北武上毛等ニ通ズルノ國郡道路ナリシト云フ、而(しか)モ有事*10争衡(そうこう)*11ノ日ニ際シテハ、廣ク南北死命ヲ制スベキ兵書ノ所謂(いわゆる)争地ニシテ、其獲喪(かくそう)*12ハ事定マルト已(や)ムト人存スルト亡(ぼう)スルトノ第一着ヲ示ス大演舞臺タリ、故ニ笛ヲ鳴ラシテ屡々(しばしば)戒心シ策應*13スルニ資(よ)リテ斯(かく)名アリトゾ、古今幾許*14爰(ここ)ニ争戦アリシ中ニモ、彼著明ノ会戦ニシテ且(かつ)惜ムベカリシハ正平(しょうへい)七年(1352)三月廿八日ノ一戦ニ南朝司令ノ主将新田左兵衛督*15義宗青年気鋭生兵*16ヲ以テ大軍ノ尊氏ヲ軽ンジ直チニ攻勢ヲ執(と)リ、要害ヲ離レテ敵ニ乗(じょう)ゼラレ一敗、信越*17ニ退却(たいきゃく)シ時ヲ待ツノ止ムヲ得ザルニ至レルコト是ナリ、但(ただ)シ此役*18ヤ四五日前義宗ガ尊氏ヲ石濱ニ追迫(おいせ)マリテ、彼ヲシテ単身絶対割服*19セントスルマデニ苦メタルニ似ズ、斯(かく)敗ヲ取リシハ兵書ニ復(ま)タ人ヲ侮(あなど)ル者ハ亡ブトイヘルニ近シ、嗚呼(ああ)天嶮ヨリモ恐ルベキハ油断ナリ、然レドモ小新田(にった)公ノ英名ハ斯(この)峠ノ真景*20ト相須(ま)チテ長ヘニ*21昭々*22タリ、這(これ)ハ姑(しばら)ク措(お)キ世人何者ノ愚(ぐ)ゾ、此峠ノ此役(えき)ヲ上信ノ碓氷嶺(うすれい)ニ嫁シ*23テ迷論ヲ吐(は)ク、林衡*24ノ博識ヲ以テ尚且(かつ)然(しか)リ、武州ヲ前ニ当テトアレバトテ徑(ただ)チニ三十里ノ碓氷嶺ヲ思フトハ、軍情ニ朦(くら)キモ程(ほど)コソアレ、一卒モ居合セズ腹切ラントマデニ敗レシ尊氏、三日計(ばかり)ニ十萬騎ヲ集メツヽ、十里程ノ当笛吹峠ニ寄ルサヘモ異数*25ノ位ナリ、笛吹ヲウスイ(……)ト訓(くん)シ自ラ苦ム者何ノ見地*26ゾヤ、マダシモ竿吹ヲ用ヘヨカシ

稲村坦元先生原稿「菅谷村史」

*1:巒脉(らんみゃく)…ぐるぐると巡っていっている山のつづき。
*2:蜿蜒(えんえん)…うねうねと長いさま。
*3:宛然(えんぜん)…そっくりそのままのさま。
*4:髣髴(ほうふつ)…よく似ているさま。
*5:切處(せっしょ)…要害の地。
*6:揮(ふる)ヘバ…充分に発揮すれば。
*7:真個(しんこ)…まことに。
*8:天嶮(てんけん)…地勢険しいところ。
*9:要扼(ようやく)…敵をまちぶせして食い止めこと。
*10:有事(ゆうじ)…非常の事態が起こること。
*11:争衡(そうこう)…優劣を争うこと。
*12:獲喪(かくそう)…得るか失うか。
*13:策應(さくおう)…しめしあわすこと。
*14:幾許(いくばく)…どんなに多く。
*15:督(かみ)…兵衛府・衛門府の長官。
*16:生兵(せいへい)…新手の兵。
*17:信越(しんえつ)…長野・新潟方面。
*18:此役(えき)…戦い。
*19:割服(かっぷく)…腹をきって死ぬこと。
*20:真景(しんけい)…まことのようす。
*21:長(とこし)ヘニ…永久に。
*22:昭々(しょうしょう)…きわめてあきらかなさま。
*23:嫁(か)シ…誤って充てる。
*24:林衡(はやしたいら)…林述斎(はやしじゅっさい)(1768-1841)。名は衡(たいら)。江戸後期の朱子学者。美濃(みの)岩村藩主松平乗薀(のりもり)の3男。『寛政重修諸家譜』、『新編武蔵風土記稿』『新編相模国風土記稿』などの編纂に関与した。
*25:異数(いすう)…他に例のないこと。
*26:見地(けんち)…判断する際の立場。

笛吹峠の碑
笛吹峠の碑

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