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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第8節:稲村坦元先生原稿「菅谷村史」

木曽家三代事蹟之記

菅谷村大字鎌形ニ村社八幡神社在リ、即チ祭神譽田別尊*1合殿比賣神*2神功皇后*3ヲ奉祀セリ、堂社ハ人皇五十代桓武天皇(かんむてんのう)ノ御宇*4延暦(えんりゃく)十二癸酉(みずのととり)年(793)将軍坂上田村麿東夷征伐トシテ下向ノ時、當所塩山(しおやま)ニ到リ地景ニ感アリテ、筑紫*5宇佐八幡神ヲ遥遷*6祭祀セラレ、仝十六丁丑(ひのとうし)年(797)奥羽ノ國司ヲ兼テ再度下向ノ節、社殿ヲ増築シ恭敬*7ヲ盡(つく)サレシヨリ郷民之ヲ産土神*8ト尊崇セリ、其後鎮守府(ちんじゅふ)将軍源義家(よしいえ)・木曽左馬頭(さまのかみ)源義仲(よしなか)・右大将(うだいしょう)源頼朝(よりとも)及夫人北條政子等厚ク信仰アリテ、何レモ神田*9ヲ寄附セラレ、營繕ヲ加ヘラレテ社殿ノ結構*10壮麗ヲ極(きわ)メシト云フ、而(しか)シテ現今存在セル神体ト云ヒ傳フルハ円頂*11法服*12ニシテ念珠*13ヲ把持*14セラルヽモノニシテ、傳教大師*15ノ彫刻ナリトゾ、蓋シ*16當時佛法隆昌*17ノ餘勢恐レ多クモ浮圖子輩*18ノ神祇ヲ左右シテ、斯(か)クノ如キニセシナラン、復(ま)タ當社上古ハ塩山ニ在リシヲ中古(年暦不詳)兵燹*19ニ罹(かか)リ社殿烏有*20ニ属シ、乃(すなは)チ現今ノ地ニ遷(うつ)セシヨリ以降ハ漸々*21衰微シ僅々*22タル神田ヲ傳フル而己(のみ)ニ至リシガ、天正(てんしょう)(1573-1592)ノ末年東國徳川氏ノ領土トナルニ及ンデ、仝十九辛卯(かのとう)年(1591)十一月徳川家康ヨリ社領二十石ヲ寄附セラレ、次デ其ノ代々将軍ヨリ朱印ヲ以テ該地*23ヲ賜ハリ来リシヲ、維新明治元年(1868)戊辰(つちのとたつ)十一月之ヲ奉還スルニ至リ、仝七年(1874)ヨリ仝十一年(1878)迄遞減*24禄ヲ下シ賜ハレリ
復(ま)タ擡頭*25ニ田村将軍地景ニ感アリシト云ヘル、塩山ハ即今*26ノ當社ヲ距(へだた)ル西北凡四町ニシテ、峨々*27タル嶮岳*28ナリ東ハ上原谷西ハ小倉山南ハ小窪ニシテ、麓ニ槻川(本(もと)月川ニシテ数丁(ちょう)下流ニ於テ都幾川ニ合ス)ノ曲流ヲ帯ビ、断岸絶壁怪嵓*29奇岩峭々*30磊々*31トシテ一勝*32臺域ヲナセリ、又塩澤ト云フアリ、往古此邊ヨリ陸塩*33湧出(ゆうしゅつ)セシコトアリ、因(よっ)テ塩山塩澤ノ名起リシト云フ、尚又當社ヨリ西南凡二町半ニ木曽殿屋敷ト唱(とな)フル地アリ、即木曽義仲ノ出生セシ所ト云ヘリ、他ニモ本社ノ東南数町小称(こしょう)植木山ニ木曽殿橋ノ名ヲ存シタル處アリ、蓋(けだ)シ義仲ノ父帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)ハ秩父次郎大夫(たいふ)ノ養君ト為(な)リ、當郷大蔵城及上野國多胡(たご)荘ニ居ヲ為セシガ、久寿(きゅうじゅ)二乙亥(きのとい)年(1155)八月多胡荘ヨリ塩山ニ移ラントシテ大蔵城ニ到リシトキ、兄源義朝ノ長子義平ニ掩殺*34セラル、義仲當時嬰児*35タリ、人(齋藤實盛(さいとうさねもり))ニ介抱セラレテ死ヲ免(まぬ)カレ、木曽ノ中原兼遠(なかはらかねとう)ニ保育セラレテ人ト成リ、其頼朝ニ先ンジテ志ヲ得(う)、一時北國東國ヲ控制*36スルニ及ンデ、産地ノ神祠ナルヲ以テ特ニ當社ヲ崇敬シタリ、其長子義高(よしたか)来リ住スルコトアリテ、亦厚ク崇敬セリト云フ、清源(きよはら)一家*37此間ノ消息惨憺*38ニ忍ビザルモノアルモ、這(これ)ハ本廟堂*39東西ノ天機*40ニ随伴*41シテ骨肉*42各自其事フル*43所ニ貢献セルノ末路*44、其分ニ至テハ暗涙*45ヲ灑(そそ)イデ尊重セザルベカラザルナリ、夫(それ)レ斯ク上来*46照シ到ツテ錯綜*47讃歎*48ニ勝(た)エザルコト、彼レガ若キヲ以テノ故ニカ、坂上将軍ヲ始ニテ八幡公*49源右府*50及東照公*51等ノ本祠ニ重キヲ存セルニ係(かか)ハラズ、後代ノ今日至ルマデ闔郷*52ノ衆庶*53ハ等シク獨リ*54木曽殿氏神八幡宮ナルヲ称謂*55シテ口吻*56ヲ去(さ)ラズ、乃(すなわ)チ爰(ここ)ニ特ニ採(と)ツテ斯(かく)世記ヲ表出セリ

稲村坦元先生原稿「菅谷村史」

*1:譽田別尊(ほんだわけのみこと)…応神天皇のこと、文武の神。
*2:合殿比賣神(ごうでんひめがみ)…一緒にまつる女神。
*3:神功皇后(じんぐうこうごう)…応神天皇の母
*4:御宇(ぎょう)…天皇の治める御世。
*5:筑紫(つくし)…九州の古称。
*6:遥遷(ようせん)…はるか遠くへうつすこと。
*7:恭敬(きょうけい)…つつしみうやまうこと。
*8:産土神(うぶすなかみ)…生まれた土地の守り神。
*9:神田(しんでん)…神社に付属する減免の田。
*10:結構(けっこう)…家屋などの構築物。
*11:円頂(えんちょう)…髪をそった頭。坊主頭。
*12:法服(ほうふく)…僧服。
*13:念珠(ねんじゅ)…数珠。
*14:把持(はじ)…手にしっかりと持つこと。
*15:傳教大師(でんきょうだいし)…最澄(さいちょう)(767-822)。日本の天台宗、比叡山延暦寺の開祖。
*16:蓋(けだ)…シたしかに。
*17:隆昌(りゅうしょう)…勢いに盛んなこと。
*18:浮圖子輩(ふとしやから)…偽僧侶のやから。
*19:兵燹(へいせん)…兵火。
*20:烏有(うゆう)…烏(いずくんぞ)有らんや。なにもないこと。
*21:漸々(ぜんぜん)…じょじょに。
*22:僅々(きんきん)…わずか。
*23:該地(がいち)…その地。
*24:遞減(ていげん)…次第に減少すること。
*25:擡頭(たいとう)…頭をもたげる。
*26:即今(そっこん)…ただいま。
*27:峨々(がが)…山などの険しく聳え立つさま。
*28:嶮岳(けんがく)…高い山。
*29:怪嵓(かいがん)…怪しげな岩。
*30:峭々(しょうしょう)…高く険しい。
*31:磊々(らいらい)…石の多く重なっている樣。
*32:一勝(いっしょう)…一つの景色の勝れたところ。
*33:陸塩(りくえん)…岩塩。
*34:掩殺(えんさつ)…不意討ちにして殺す。
*35:嬰児(えいじ)…乳飲み子。
*36:控制(こうせい)…他を制しおさえとりしまること。牽制(けんせい)。
*37:奥州に栄えた藤原三代。
*38:惨憺(さんたん)…いたましく悲しいさま。
*39:廟堂(びょうどう)…天下の大政をつかさどる所、朝廷。
*40:天機(てんき)…天皇の機嫌。
*41:随伴(ずいはん)…つきしたがうこと。
*42:骨肉(こつにく)…親子兄弟などの血縁。
*43:事(つか)…フル…仕える。
*44:末路(まつろ)…なれのはて。
*45:暗涙(あんるい)…人知れず流す涙。
*46:上来(じょうらい)…昔から。
*47:錯綜(さくそう)…入り交じる。
*48:讃歎(さんたん)…深く感心して誉めること。
*49:源義家。
*50:源頼朝。
*51:徳川家康。
*52:闔郷(こうきょう)…全村。村中全部。
*53:衆庶(しゅうしょ)…一般の人々、庶民、人民。
*54:獨(ひと)リ…ひとりでに。
*55:称謂(しょうい)…となえる、言うこと。
*56:口吻(こうふん)…口さき。

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