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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第8節:稲村坦元先生原稿「菅谷村史」

大蔵志

大蔵ハ都幾川南根岸ノ西鎌形ノ東ニ居(を)リ其南将軍澤ト相接ス、新記云大蔵村ハ昔帯刀先生(たちはきせんじょう)源義賢(よしかた)ガ武州大蔵舘ニ居リシト云フ旧地ナリ(上畧)久壽(きゅうじゅ)年中(1154-1156)ノ事也
古墳畑中ニアリ相傳フ帯刀先生義賢ガ墳墓(ふんぼ)ナリト、?三尺許(ばかり)ト覺シキ塔ナレドモ半(なかば)ハ土中ニ埋(う)マリ、旦(かつ)五輪*1モ缺損シ其中■ニ梵字*2ヲ彫リタル一石ノミ残レリ、ソレニ雨覆ヲ施(ほどこ)シ注連*3ヲ引ケリ(中畧)天保(てんぽう)年中(1830-1844)大蔵村ノ小名*4石井土ニ義賢ノ墓碑ヲ建テタリ、義賢ハ六條判官為義(ろくじょうほうがんためよし)ノ二男ニシテ帯刀先生*5又ハ多胡先生*6ト称ス(帝王編年記*7立川寺年代記*8)長門本源平盛衰記*9ニ「舘義賢去仁平(にんぺい、にんぴょう)三年(1153)夏ノ比(ころ)上野國多胡郡ニ居シタリケルガ、秩父次郎太夫ガ養君*10ニナツテ武蔵國比企郡ヘ通(かよ)ヒケル程ニ、當國ニモ限ラズ隣國マデモ随(したが)ヒケリ」トアリ(下畧)平治物語*11待賢門(たいけんもん)ノ戰ニ義平(よしひら)ノ言ヒシ詞(ことば)ニ「此手ノ大将ハ誰人ゾ名乗(なの)レ聴(き)カン、斯(か)ク申(もう)スハ清和天皇九代ノ後胤*12鎌倉ノ悪源太義平ト曰(い)フ者ナリ、先年十五歳ノ時武蔵大蔵攻(ぜめ)ノ大将トシテ叔父帯刀先生義賢ヲ討チシヨリ以来、度々ノ合戦ニ一度モ不覺*13ノ名ヲ取ラズ、今年積リテ十九歳見参*14セントテ五百騎ノ真正中ヘ破(わ)ツテ入リ」云々又東鑑*15治承四年(じしょう)(1180)九月七日ノ條ニ
 源氏木曽冠者義仲主者帯刀先生義賢二男也義賢者久壽二年八月於武蔵國大蔵舘為鎌倉悪源太義平主被討亡于時義仲為三歳嬰児也乳母夫中三権守兼遠懐之遁于信濃國令養育之成人之今武略稟性征平氏可興家之由有存念而前武衛於石橋己被始合戦之由達遠聞忽相*16

當大蔵ハ松山町ヨリ秩父ノ江都タル大宮町ニ通ゼル縣道中都幾川橋渡(はしわたし)ノ衝(しょう)ニ折シ、戸数七十四戸有リ

稲村坦元先生原稿「菅谷村史」

*1:五輪(ごりん)…五輪塔のこと。地・水・火・風・空の五輪をかさねた墓塔。
*2:梵字(ぼんじ)…サンスクリット語を記するのに用いる文字。
*3:注連(しめ)…注連縄のこと。不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄。
*4:小名(こな)…村や町を小分けした名のこと。小字(こあざ)。
*5:八・九世紀頃、皇太子側近護衛の武力として置かれた官職、義賢もそれに属していた為にこの称あり。
*6:多胡(たこ)先生…群馬県多野郡吉井町(2009年6月高崎市に編入)一帯を多胡と称し、義賢が以前その地を領していたためにこの称あり。
*7:神代より鎌倉時代後期の後伏見天皇まで歴代の天皇紀を中心とする年代記。
*8:宇多天皇より後柏原天皇永正元年(1504)までの年代記。
*9:源平盛衰記(げんぺいせいすいき)…源平二氏の興亡盛衰を精細に叙述した軍記物語。
*10:養君(ようくん、やしないぎみ)…守り立てる主君。
*11:平治物語(へいじものがたり)…平治の乱の顛末を画いた鎌倉初期の軍記物語。
*12:後胤(こういん)…子孫。
*13:不覺(ふかく)…卑怯、臆病なこと。
*14:見参(げんざん)…目上の者に対面すること。
*15:東鑑(あずまかがみ)…源頼政挙兵(1180)からら87年間の鎌倉幕府中心の事跡を編述した書物。
*16:源氏木曽ノ冠者義仲主(ぬし)ハ帯刀先生義賢ノ二男ナリ。義賢ハ久寿二年八月武蔵国大蔵館ニ於テ鎌倉ノ悪源太義平主ノ為ニ討チ亡サル。時ニ義仲三歳ノ嬰児タルナリ。乳母ノ夫中三権守兼遠之ヲ懐ニ信濃国ニ遁レ之ヲ養育セシム。成人ノ今武略稟性平氏ヲ征(う)チ家ヲ興スベキノ由存念有テ前(さき)ノ武衛(ぶえい)(源頼朝)石橋ニ於テスデニ合戦始ラルルノ由遠聞ニ達シ、タチマチ相加ント欲シ素意ヲ顕ス云々

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